11 Julito Rodriguez

ヒルもナバーロもトップ・ボイスはプエルト・リコ人であるべきと考えていた。メヒコにも既にボレロを歌うトリオは存在したが、パンチョスの特徴はそれらにはないパホーマンスである。キューバ人ではアクが強すぎるのではないか。南米人では失敗した。ヒルはパンチョスを熟知しているラファエル・エルナンデスに多分ブラジルから電話で窮状を訴え、自分たちに合うトップ・ボイスを見つけてほしいと依頼した。折り返しエル・ヒバリート・エルナンデスから返事が入る。事情があってすぐにとはいかないが、パンチョスには 打ってつけの若者がいる。しかもその事状以外は彼はフリーだ。この電話の応答がなされたのは527月と考えていい。そのわけは★のページに記す。

その若者がパンチョス三代目のテノール、フリオ・ロドリーゲス・レージェスである。彼は愛称のほうで、知られているから、以下もフリート・ロドリーゲスとしよう。外国盤や雑誌などもこの表記が使われている。なお彼は父と同名なのでフリート(子フリオ)名は幼少の時からなんだろう。フリート・ロドリーゲスは1925(大正14年)1015日にプエルト・リコの首都サン・ファンの北部サントゥルセ区に生まれた。父は警察官のフリーオ・ロドリーゲス・トーレス、母はアウローラ・レージェス・リベーラ、10人兄弟の長男である。父はギターが弾けたが、彼が幼いころからアルトゥーロ・アンドレウ・サルバーという先生のもとでバイオリンを習わせた。レッスンには四年間も通ったというからその腕前は14歳の時に年齢上常時ではなかったがオルケスタ・アタウエイの第二バイオリンを努めたし、ずっとのちの70年代には彼が所属していたロス・トレス・グランデスでは歌の合間にバイオリン・ソロをやってのけて客を湧かせた。1940年、父の転勤に伴い彼はプエルト・リコ第二の都会、南部のポンセへ移り名門ポンセ・ハイ・スクールに学ぶのだが、学友たちと楽団を組んだり、よそのバンドでアルバイトをしていたが、いつもバイオリン奏者としてであった。そんなフリートがギターと出会う。ポンセに移って一年ほど、そのころの彼は父の勤務先ひいては住居も不便な所だったので下宿をしていて週末だけ戻ってくるようにしていたのだが、棊日帰ってみると彼のベットの上にギターが置かれていたのだった。バイオリンのように値のはるものよりもとの気持ちからだったのかどうか母からのプレゼントだった。1ペソの安物だったのだが、フリートはそれにとりつかれた。人が弾いているのを見て、ボクもやってみたいなと思っていたのだ。弦の並び順、初歩的な和音の押さえ方を父に教えられると興味は増すばかり、とうとう手引き書まで買い込んで練習している内にバイオリンは置き去りにされた。このようなわけで彼のギターはまったくの独学である。歌は子供の頃から口ずさんでいたが、こうしてギターを伴侶に出版こそされていないが作曲もしていた。ポンセ・ハイスクールを卒業したフリートは、1946年に父の転勤にともなってサントゥルセに帰り、プエリト・リコの最高学府プエルト・リコ大学(ウニベルシダード・デ・プエルト・リコ)に入学する。学業は本題ではないので秀才だったかどうかは省略するが、ここでフリートは大急ぎでバリトン・サックスを習得している。大学では軍事訓練も教程の一環なのだが、その中に軍楽隊サークルがあった。フリートは入ろうと思ったのだが軍楽隊ではバイオリンは役に立たず、バリトン・サックスしか欠員がなかったのである。だからこれはこぼれ話でしかない。そのいっぽうでフリートはギターを弾いては歌ったりしていたのだが、とうとうそれを試したくなって、素人のど自慢のラジオ番組トリブート・デル・アルテ(芸能の貢ぎもの。のちにテレビ化されるが多くのアーティストを輩出した権勢ある番組)に出ることにした。フリートが住んでいた家の隣にはこれもギター弾き歌いが得意なフェリーペ・ロドリゲス・キニョーネスが住んでいたのだが常に意気投合していた二人はドゥオで登場し堂々一位を獲得した。審査にあたったのはほかならぬラファエル・エルナンデスである。番組のスポンサーがダボール・エア・ラインズだったので、エルナンデスは二人にロス・アビアドーレス(飛行士たち)という名を与えて、ほかのやはり彼が担当する番組に出演させた。トリブート・デル・アルテで優勝し局のギター奏者に採用されていた若者に、大学ではフリート一年先輩のフェデリーコ・コルデーロがいたが、フリートは彼に呼びかけてロス・アビアドーレスを1946年の秋だった。それにアビアドーレスという名はどうもしっくりしないのでフリートの発案でトリオ・ロス・ロマンセーロスと改め、クラブにも出演、47年にフェデリーコ・コルデーロがクラシック・ギターの道に専心するべく退団したあとにはエクトル・リベーラが加入、そのリベーラがニューヨークへ行ってしまったあとにはソテーロ・コジャーソが加入した。トリオ・ロス・ロマンセーロスは順風満帆で、47年にはベルネ・レコードで初の録音もしたし、ナイト・クラブだけではなく49年にオープンしたカリーベ・ヒルトン・ホテルのオープニングにはハリウッド・スターも含む著名な招待客を前にして歌った。こうなると、もう学業どころではなく、大学は3年でやめてしまう。学問より歌の道を選んだということではチューチョ・ナバーロそっくりである。だがロマンセーロスは50年に分裂する。フェリーペはもともとロマンセーロスというフリートが決めた名前が気に入らなかったし、なにかと不満を持っていた。分裂を悟ったフリートがセカンドにアダルベルト・デ・コルドバを選んでレッスンを始め、フェリーペにいわせると自身が声帯にに障害を起こした時フリートが断りもなくこのメンバーで歌ったからだという。フリートはちゃんと断りをいれてのことだったという。フェリーペが去ったあともロマンセーロスは継続しドゥオ・ロドリゲス・コルドバの名で録音したりもするのだが、501010日にトリオは決定的に解散する。分裂ではない。フリートが兵役にとられたからであった。なおフェリーペは50年にロマンセーロスを脱けるとトリオ・ロス・カルピオスを、すぐにメンバーを変えてトリオ・ロス・アンターレスを結成した。どちらのトリオもフェリーペ・ロドリゲスとトリオで実質的には四人、だからフェリーペはソロ歌手としても自由に活動して名をはせた。このことを考えるとロマンセーロスの分裂の原因は、どちらがトップ歌手かというお山の大将争いにあったのではなかろうか。

2年間にわたる兵営生活が始まった。これは国民の義務みたいなものである。1950年といえば朝鮮動乱の起きた年(註1)だがベガバーハのトルトゥーガ・キャンプはさしせまった情勢にはなく、ベガバーハはサン・ファンから国道2号線を西へ40キロちょっとという至近距離とはいえロマンセーロスでの録音も続けていたらしいから驚く。兵営内でも仲間を集めて、銃を取るよりギターを抱えていた。劣等もいいところだが52年に次に記すことが起きた時には軍曹の地位にあり軍事教官だったというからまたまた驚く。旧日本軍とは昇進制度や階級名も、呼称も異なるのかも知れないが軍曹とはサルヘント(サージェント)である。その事件(といっては大げさだが、フリートにとっては大事件である)とは、たまたまラジオを聞いていた軍友がラファエル・エルナンデスが自分の番組で「トリオ・ロス・パンチョスがトップヴォイスを求めている。私はロマンセーロスにいたフリート・ロドリゲスを推薦した」と語ったのを注進に来てくれたことである。フリートは一笑にふしたが友人は聞き違いではない断言した。何故なら番組の終末にエルナンデスは同じことをくり返したからそしてフリート、キミはどこにいるんだ。すぐ連絡せよとも。休暇にロドリゲスはエルナンデスを訪ねて真疑をたしかめた。本当だとエルナンデスは答え言いそえた「だからパンチョスの曲を練習しておきなさい」。それからのフリートはいよいよ銃どころではなくパンチョスのメロデイを追いかける日々になったが、そのことはさほど苦にならなかった。ロマンセーロス時代のフリートにはマリアーノ・アルタウという友だちがいた。彼はWAPA局のディスクジョツキーだったからレコード新譜をすぐに聴ける立場にあったのだがことにパンチョスのそれが入るとすぐにフリートに知らせてやった。フリートはそれを借りて聞きこんではロマンセーロスのレパートリーにとりいれたりもしていたから、パンチョスには慣れていたのである。それが今や自分もパンチョになれるというのだ。退役、つまり自由の身になれるまでには3ケ月、エルナンデスが事情があって今すぐというわけにはいかないがとヒルにいったのはそのことである。フリートがヒルナバーロに会ったのは10月だから、電話の応答は7月ということになる。だからシャウ・モレーノ期の終焉はこのころであり、録音も終わっていたと考えてよいはずだ。521011日、自宅を出たフリートは除隊証明を取るためにポンセ・デ・レオン通りのバス車内にあった。その時彼の脳裡にひとつのメロディと詞が浮かんできた・彼は隣席の客に頼んで紙と鉛筆を借りるとそれをざっと書き、下車したあとで清書した。これが彼の代表作として広く伝わるマル・イ・シエロである。よく出来た話のようだがフリート自身がそう語っているそうだ。マル・イ・シエロは、ボレロだけではなく、ありとあらゆる歌の中で非常に珍しい内容を持っている。男女の別れが題材だが、それだけならいくつも例がある。ノソートロスのように相手のことを思いやっての別れ話もあれば極端な愛想づかしのノ・メ・キエラス・タント、ざまぁみろ型のエキボカステ・エル・カミーノとパンチョスが歌っただけでも想い出される。ところがよく知られているように、一見同じ色のようで遠方ではつながっているように見える海(Mar)になってキミに報いようとしたボクは空(Ciero)とつづるこの曲は離婚話なのだ。一枚の紙(婚姻証明)に書かれているのだから法律上ボクはキミのもの、と。このユニークなシチェ・エーションは実際に起きたことに立脚するに違いないと私は考えていたのだが、そうではないと気がついた。私の一人よがりの独断かも知れないが、この曲は次のように生まれたと今では信じている。ナバーロは部屋にさしこむ広告証明の光からラジート・デ・ルナ(月の光)を作った。見事な発想の転換である。マル・イ・シエロも発想の転換である。フリートはいま除隊の手続きに行く。今この瞬間においても彼は一片の紙(兵士証明書)によって身柄は軍に所属すると法律に規定されているのだ。海になろうと努力はしたがしょせん私は空、海と空は決して決していっしょにはならない、ごめんなさい。ポンセ・デ・レオン通りからは海と空が実によく見える、(2 )とここまでいったらこじつけだが、今やフリートは拘束を離れて自由な空に向かう、それもパンチョスという巨大な虹を渡って。ヒルとナバーロはブラジルからひとまずメヒコへ帰り、それからニューヨークでしばらくを過ごしてからプエルトリコ入りした。だからブラジルでの録音をアメリカ コロンビアへとどけたのは彼ら自身だったのかも知れない。フリートとの初対面はビエホ・サン・フアンのサン・フランシスコ通りにあるティエンダ・(もしくはカーサ・デ・)フラゴーソで行われたというからフリートが除隊証明を受け取った当日のようにも思える。サン・フランシスコ通りとは、ポンセ・デル・レオン通りの西端、つまり通りの出発点の北1ブロックに発する長さ500メートルそこそこの道である。フラゴーソ店、もしくはフラゴーソ社は、リーノ・フラゴーソの経営だがフラゴーソ亡きあとは、他の業者に変わってしまった。なおこの建物があった所はアビレス生誕の地のごく近くのはずである。フリートの声を聴いてヒルもナバーロもさすがはエルナンデスの選んだ人と感じ入った。さらに二人は新作だといって彼が持って来た曲にも感動した。この新人は作曲も出来るのだ、この日は顔合わせだけだから誰もギターを持っていなかったので、ヒルは店のピアノを使って前奏を作った。マル・イ・シエロは初日からパンチョスのレパートリーに加えられた。新しいトップが入団するとお披露目の意味も兼ねてヒルかナバーロが曲を作るのだが新参加者の曲でデビューしたのはロドリゲスだけである(持ち込み曲という意味では次の時代のアルビーノやカーセレスもこれに準ずるが)。プエルト・リコで練習を重ねるうちにドミニカのラ・ボス・ドミニカーナ局と契約が出来たのでフリート参加のパンチョスは同局でデビューした。マル・イ・シエロの初演である。同時にヒルの新作ジャ・メ・ボイも初めて歌われた。前途に確信を持ったに違いない。それからの彼らの行程を見ると次から次へ契約を結んでいたらしい。手始めは5212月のニューヨークでの録音である。もちろん当面の2曲でSP発売されるのだが。マル・イ・シエロは今いったことにお墨付きを与える。マル・イ・シエロはA面なのだ(コロンビア439916)けれどもこのレコードには面白いミスが見られる。ことにマル・イ・シエロの場合はのちに出されるLPにも引き継がれるのだが作者名がJ.ロドリゲスーレジェスとあきらかにロドリゲスとレジェスの共作扱いになっているのだ。ジャ・メ・ボイもA.M.ヒル.これらのミスの原因は調べようもない。フリート期パンチョスはマル・イ・シエロで始まった。ニューヨークでのデビューはシアター・サン・ファンでなされた。オルティス・ラモスによればサン・ファン劇場では二回連続の週末ショウ、シャトウ・マドリードにほぼ6週間、クリスマスにはプエルト・リコに戻ってホテル・カリーベ・ヒルトンに出演したということだから、ドミニカのラジオに出たのは11月、いや10月の内だったと計算できる。サン・ファン劇場の二回連続ショウというのは一晩に二回上演することだろう。共演したのがエルマーナス・マルケス、ラス・ドリー・シスターズ、ホセ・クルベーロ楽団、この時すぐではないだろうが、ナバーロはラス・ドリー・シスターズの一員カリダード・バスケスと結婚した。(ただしヒルもそうだが離婚再婚をくりかえす)。もう53年になっていた。プエルト・リコからベネスエラに飛び、二週間に渡って主都カラカスはもちろん各都市を駆けめぐった。ベネスエラからは隣国コロンビアは飛び越して運河の国パナマへ。契約したのはこの国の実業家で、やがてテレビ会社も経営することになるカルロス・エレータ・アルマラン(1918〜 )という人物である。素気ない書きようをしたが、お気づきのとおりこのパナマ訪問の少しあと、あの「或る恋の物語」を世に出した人だ。彼にとって作曲は副業なのだがその作品だけでLPが作れてしまう(実際に存在する)のだからうらやましい。だからパンチョスはパナマ各市を巡るかたわらアルマラン作のボレロ、ケ・セア・デ・ベルダード、彼の友であり音楽上の先輩アルトゥーロ・チーノ・ハッサン(19111975、彼の父は本当に中国人〔チーノ〕である)の代表作タンボレーラ、グアジャビータを録音した。このあと4月までパンチョスは活動を中断する。軌道に乗りかかったばかりなのにといぶかれようが軌道に乗ったからであった。フリートはいったんサン・ファンに帰り、メヒコ移住の手続きや準備に追われたのである。彼らはXEW_TV2チャンネル)のレビスタ・ムシカル・ネスカフェに登場した。これはかってのラジオ番組ラ・オーラ・ネスカフェが52818日以降テレビに移行したもの(ラジオでも同時放送)で、たまたま来墨中だったレコーナ・キューバン・ボーイズが出演した初日当時は3ヶ月の契約であったのが好評で継続していたのである。メンバーが変わったことで危惧の声もあり、中にはパンチョスはもう終わったとまでいわていたのだが番組のプロデューサーはパンチョスが国外にある時から彼らとの契約、大キャンペーンを行った。結果は大成功で、レコードが出されていたとしても出たばかりのマル・イ・シエロ、未発表のデサンパラーダはこの番組を通じて一躍ゆうめいになった(即席コーヒーをあなどってはいけない)。テアトロ・ブランキータへの出演も好評で、デサンパラーダはもとより、以下の曲を録音する。

◆ピエル・カネーラ/ボビイ・カボー作ボレロ。フリートはロマンセーロス時代の1947年、サンファンでWIBS局オープンの日に同局でカポー(  〜1989)と知り合って以来の友である。

◆マニャニータ・カンペーラ/ラファエル・エルナンデス作カンシオン・ヒバーラ

◆アルマ、コラソン・イ・ビーダ/アブドン・フローレス作バルス・ペルアーノ

◆アル・レトルノ/ドミニカのビエンベニード・ブレンスの作をヒルが仕上げたボレロ

◆デサンパラーダ/ヒル作のボレロ

◆ノ・メ・デーヘス/ナバーロ作ボレロ。曲の始めと終わりにギターが機関車のシリンダー音、レキントが警鐘音を
   模写する。

1)プエルトリコ人も出兵し、戦死者もでた。その最初の遺体がプエルト・リコに送り届けられたのは51815日だったという。

2) ポンセ・デ・レオン通りはサンファン市の北ビエホ・サンフアンに発し、市をほぼ南北につらぬく長い道なので、しじゅう海が見えるわけではない。

Trio Los Romanceros Mexico Columbia DCL 38 Julito Rodriguez Nippon Columbia PL 2015
TROPICAL TRLP 5036 MEXICO  COLUMBIA  DCL 38 NIPPON COLUMBIA  PL 2015
Trio Los Romancerosは残念ながら一曲しかない。購入時からトップはフリート・ロドリゲスらしいと友人間で話題になった。 Los Panchos LP VOL.6
NIPPON COLUMBIA  PL 2015として
発売された。
Mar y Cielo _ J, Rodriguez, Reyes
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