12 Julito Rodriguez-2

ハリウッドのナイト・スポット、ロス アンゼルスのミリオン・ダラー劇場などカリフォニア州各地を巡ってから東海岸へ飛び、ニューヨークのプエルト・リコ劇場、さらにメヒコのいくつかの都市でも歌ってメヒコ市へ帰るとあらたなレコーディングである。ことレコードにかんしては、フリートの時代の様相が一番面白い。日本では最近でこそ競作が見られるようになったがヒット・ソングは一人の歌手のものであって、ほかの人は仮に歌うことはあってもレコーディングすることはなかった。外国ではそんなことはないから猛烈な競り合いになる。フリート期のコロンビア対ビクター、正確にいえばパンチョス対ビクターのライバル合戦は実にドラマチックだ。パンチョスが不在だった1952年、メヒコで一番人気があったトリオは、疑いもなくロス・トレス・ディアマンテスである。
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年にはコンディシオンもさることながらウステーが売れに売れて黄金レコードを獲得
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52年には今までのボレロの概念を打破したラ・グローリア・エレス・トゥとアジェール・ラ・ビ・ジョラー
2)が表裏のレコードで両面ゴールデン・ディスクという前代未聞の快挙をやってのけた。ボレロ・モデルノ(モダン・ボレロ)ということばが使われ、主流になって行くのはこの時からである。ビギン・ザ・ビギン、ナイト・アンド・デイ、枯葉など外国の曲もこなせば、ラ・マラゲーニャ、トゥ・ソロ・トゥのようなランチェロも兄貴分のカラベラスにひけをとらなかった。しかしデイアマンテスは既に完成品だった。かってパンチョスの引き抜きに失敗したビクターのプロデューサー、マリアーノ・リベーラ・コンデはムサルトに録音していたトリオ・クリアカンを引き抜き、ロス・トレス・アセスと改名させ手ぐすね引いていた。ビクターはジャイアンツかヤンキースか、アーティストを引き抜いてその人の才能をディレクター力倆でホセ・アルフレード・ヒメネス、アマーリア・メンドーサのように成功した例もあれば、失敗作もある。極付はエルマノス・マルティノネス・ヒル、つまりアルフレード・ヒルの叔父パブロとカルロスにマル・イ・シエロとデサンパラーダを歌わせたことだった。アレンジャーはマリアチ・バルガス・デ・テカリトランのトランペッターに発し、当時既に第一級の作・編曲、指揮者だったルーベン・フエンテスである。それらはエルマノス・マルティネス・ヒルの結成25周年アルバム(メヒコ・ビクター30センチLP第一号)に収められているが、パンチョスと競わせた以上のいきさつもジャケットに記載されている。以上をふまえて、パンチョスの録音曲に筆を進めよう。

1)メヒコのみならずスペイン語の恋唄は二人称のトゥ(きみ)でつづられているのが常法だが「ウステー(あなた)という語法が珍しかったのもヒットの一因かもしれない」とグスターボ・プラードは解析する。
2) ともに当時メヒコにいたキューバのギター弾き歌い作曲家ホセ・アントニオ・メンデスの作品、彼もメヒコ・ビクターに録音した。

◆セレソ・ローサ/ピエル・ルイギイ50年作のシャンソンでイヴェット・ジローが当てたスリジエ・ローズ・エ・ポム・ブラン。アメリカ経由で入ってきたはずで当時アメリカ入りしていたペレス・プラードがチェリー・ピンク・アンド・アップル・ホワイトの訳名で録音(後年の再録音ではセレソ・ローサ)、いうまでもなくペレス・プラードはビクター専属である。パンチョス版には訳者名であろうレオナルディの名が見えるがロス・テコリーネス(ピアレス)版ではレオナルディ・E、フェルナンデスになっている。これらはスリジェ・ローズからの訳名(哀れポム・ブラン、 ―白いりんごの花― は風に飛ばされたらしい)によっており、ペレス・プラードのマンボ版がメヒコで出されたのは一歩あとであった。そしてペレス・プラードのチェリー・ピンク改めセレソ・ローサ版はメヒコでは話題にならなかった。ペレス・プラード自身のアイデアではあるまいがシネマスコープ映画アンダーウォーター(海底の黄金)、のメインテーマに使われて御大も出演した。
エルメリダ/フェリーペ・ピングロ・アルバ作
ラドローナ・デ・ベーソス/カルロス・モンテネグロの詞にラ・アフィシオン紙(1)の記者ラモン・インクランが作曲したボレロ。ロス・トレス・アセスが録音したが、数年を経ずして訪れる彼らの絶頂期とは較べようもない。それよりもメヒコに定着していたキューバのトリオ・ウルキーサ(ビクター)が当てたらしい。
ジャマンドテ/アレクシス・ブラウ作
ラ・ウルティマ・コーパ/フランシスコ・カナーロ作、ファン・カルーソ詞のタンゴ。1926年に初演された古い曲だが、カルロス・ガルデルの名昌によってプエルト・リコでも人気がありフリートもロマンセーロス時代からご執心で(263日の録音だという。
エリーダ・デ・アモール/クラウディオ・エストラーダ作
アンナ ジォルダーノ・ヴァトロ作バイオン。49年のイタリア映画リゾ・アマーロ(邦題にがい米)の挿入曲とされるが、映画を観なかったのではっきりしないけれど51年映画アンナでないだろうか。どちらもシルバーノ・マンガーノ主演で彼女が歌った(吹き替え)という。メヒコでも結構当たってコンスエロ・ベラスケス(マリアーノ・コンデ夫人だから当然ビクター)もピアノ録音した。ブラジルのリズム、バイオンはこのころイタリアで流行していたのだが、このことばbaiõ;oの語尾は阿呍の呼吸ならでアゥォンとにごる発音なのでスペイン語園ではbaiyánとつづられている。パンチョスがバイジャンと発音しているのはそのためだ。
グラシアス、ムーチャス・グラシアス/エンリーケ・ファブレガー作(おそらくペドロ・ガラン詞)。数年後マリア・ビクトリアも同題の曲を録音したが、もちろん別曲だ、だがこちらはディアマンテスのサウロ・セダーノの作品なのだから面白い。面白ついでにいうと、ディアマンテス自体は同曲を録音しなかった。
オブセシオン/ペドロ・フローレス作(3
ドス・コーサス/ビセンテ・ゴンサレス作。DCL_3354年のヒット集」に収められた。
バージャ・コン・ディオス/ラリー・ラッセル、アイネス・ジェームス、バディ・ペッパー作アメリカ製ランチェーラ?で、ペドロ・インファンテも録音した。スペイン語詞はガンボアという人らしいが、ずっとのちのルイス・アルベルト・デル・パラナーとロス・パラグアージョスが用いた詞とは雲泥の差の出来(どっちが雲かは申すまでもなし)。それにしてもニューヨークで誕生したパンチョスが今までアメリカのヒット曲に手をつけないでいたのは不思議ですらある。アンナにしても同じことがいえて、これを収めた米コロンビアの25センチLP(メヒコの第6集)でも非ラテンアメリカの曲を初めて取り上げたと書かれているばかりか、別れを告げるこの曲が巻頭に置かれていた。

1)スポーツや芸能主体の日刊新聞。

2)ロマンセーロス分裂後にフリートは録音しようとしたのだが、一足早くフェリーペがレコーディングしてしまったので断念したという。

31894_3_9ナグアポ~1979_7_12サン・ファン、オスピタル・デ・ベテラノス(退役軍人病院だが一般人も入れる。もっとも彼は第一次世界に従軍)激しい恋の歌だが、1920年に妻と死別して以来彼は独身をとうした。この曲はメヒコではNYで覚えてきたカンティンフラスが陽気に創唱したという。

エスピニータ ニーコ(ニコラス)・ヒメーネス作。雰囲気としては南米コロンビアのポーロ。これもコンスエーロ・ベラスケスも演じた。
エストゥーピド、クピード/セベーロ・ミロン作。この曲に関してはエルマノス・マルティネス・ヒルとどっちが先か分からないが、メンデルスゾーンの「春の歌」のメロデイを巧みに取り入れた叔父さんたちのほうが文句なしに面白い。なおこのころに彼らはシエン・アーニョスも録音したがパンチョスは70年代後半に後述するミル・ベーソスともども録音、「パンチョスとの50年代」としたアルバムに収められた
ラ・エンガニャドーラ/キューバからメヒコを訪問中だったチャチャチャの創道主エンリーケ・ホリンが49年に発表したこのリズム第1号。
ポル・ケ・ジャ・ノ・メ・キエレス/アグスティン・ララ51年の作。
ネグリータ・チャベローナ/ロレンソ・バルセラータ作。
カンタンド・ナーセ・エル・アモール/ペドロ・ガリンド作。同題の映画(多分ガリンドのプロデュース)で歌った。
アンティオケーニャヌンカ・ハマス/ラーロ・ゲレーロ作
コン・キエン・アブラ・ケ・アブラール/フリート作
マニャーナ・テ・バス/ナバーロ作
ロ・ドゥード/同。ロス・トレス・アセスが歌ったが、おそらくまるで当たらなかったはず。
エル・ティグレ・ラスラード/
オルビーダ・ロ・パサード/同。シャウ・モレーノ期に録音したが、こんなに早く再録音したのは珍しい。

1954(昭和29年)年、パンチョスは久しぶりにプエルト・リコを訪れた。いくつかのホテルに出演、もちろんラジオやテレビにも登場した。この時の彼らのオープニング・テーマはサンドゥンガだったそうだが、メヒコ南部オアハーカ州の有名なこのバルスを彼らはついぞ録音したことがない。テレビは当時始まったばかりで、2チャンネル、テレムンドに出たがスポンサーはインディア・ビール社、そこでパンチョスはヒルが作ったコマーシャル・ソングを歌った。コマソンはこれが初めてではなくてメヒコでもいくつか歌っていたのだが、それらはオリジナルではなく、ほかの曲からの流行だったりした。ひとまずメヒコに戻ってから、グアテマラ、オンドゥラス、ニカラグア、コスタ・リカ、これは憶えておいてほしいのだがパナマ(・・・)、キュウツー、コロンビアを巡る。そして録音した曲は_
カリータ・ナカラーダ/グラシエーラ・オルモス作
アグアンタ・コラソン/同。作者( ~1962)は本名マリーナ・アエドといい、革命戦争下女兵活動した経験を活かして53年にコリード、シエテ・レグアスを発表、脚光を浴びていた。これも北部調のランチェーロで、次の曲ともどもパンチョスが初めてマリアチの伴奏で歌った記録さるべきー曲。なお前曲はボレロで、オルモス作のボレロは55にもラ・エンラマーダがヒットする。
ボロー/フェリーペ・バルデス・レアル作の典型的なカンシオン・ランチェーラ。まさしくマリアチ・ロス・パンチョスで、フリートの順応性に驚く。
ラグリマス・デ・ロン/メリド・グティエレス作。副題エル・ボラーチョ
シ・メ・キェレス/マルグリット・モノー曲、エディット・ピアフ詞イムヌ・ダムール(愛の賛歌)。49年作の、ピアフの自唱があまりにも名高いシャンソンだが、ジェオフェレイ・パーソンがイフ・ユー・ラヴ・ミー英詩をつけた。パンチョスは後者にもとづきヒルが詞を書いたがアルゼンチンのロス・シンコ・ラティーノスはオリジナルによるベン・モラールの訳詞で歌っていた。
(アブラメ)・シン・パラーブラス/D・ラウレンティス作。レコードによってアブラメは省略されている。アイ、ケ・ペーナ/アラセーレス・フリアン
ミス・ノーチェス・シン・ティ/アルゼンチンのデメトリオ・オルティス曲、マリア・テレーサ・マルケス詞のパラーナ河沿岸風カンシオン。マルケスの自唱でヒットしたが、キューバのオルガ・チョーレンスがソノーラ・マタンセーラに在籍中ボレロ・マンボ風に録音したこともあり、彼女はメヒコを訪れているからこちらがネタかも知れない。
カフェ、カレテーロ/マルセリーノ・ゲーラ作
ベーソ・ボラーチョ/エステバン・タロヒー作
ミル・ベーソス/エンマ・エレーナ・バルデラマール作。バルデラマールの作品は53年にムーチョ・コラソンがヒットした。その余勢だろうが、46年にXEW局のノド自慢番組ら・オラ・デ・アフィシオナードスに出て歌手を目ざしていた(結局断念)頃の作品が掘り起こされてロス・ブリーボネス(1)が当て、マリア・ビクトリアがファン・エスキーベルの絶妙なバッキングを得て決定的なパンチをあびせた。

コンスエーロ・ベラスケスも「54年ヒット曲集に」録音している。(2

ソジョーソ/プエルト・リコのティト・エンリーケス作
アウンケ・メ・クエステ・ラ・ビーダ/ドミニカのルイス・カラワがこのころ発表した(54年刊)ボレロで、対するのはペドロ・インファンテ(ピアレス)。セリア・クルスも歌ったが後年のこと。
ジョ・キシエーラ・サベール/ペドロ・ラーラ作
ジョランダ/ミゲール・オテーロ作
クエスタ・アバーホ/カルロス・ガルデル曲、アルフレード・レ・ペーラ詞。34年にハリウッドで作られたガルデル主演の同名の映画中の一曲。もちろんもとはタンゴで、ラ・ウルティマ・コーパともどもフリートはロマンセーロス時代から歌っていたのだろう。
ペーナ・ペニータファラオーナ(ファラオの娘)とあだ名されたスペインの今では伝説的な歌姫、52年にメヒコを訪れたローラ・フローレス(ドローレス・フローレス・ルイス。19231995)が十八番にしていたサンブラ。52年にデビューし、吹込みは前年だろうが54年にキエン・セラをヒットさせたトリオ・デルフィネスもこのころに録音した。(a)
パンチョスともどもボレロにし、スペイン語語法は薄められている。(3)ここはメヒコだ
‼、ルイス・アギラールとアントニオ・バドゥ主演でこの曲による映画も作られた。なおトリオ・デルフィネス(イルカたち)はベラクルス州港都ベラクルス出身のホセ(ペペ)とヘスス(チューチョ)のオロアルテ兄弟が52年にレオナルド・サモラーノと組みキエン・セラで当てた。サモラーノはアグスティン・アギラールに交替、一時ラファエル・マルビードが加入していたこともあるが73年三度目の来日時のトップはラファエル・バスルトだった。(b)
プエルト・リコ/ヒル作。54年にプエルト・リコ訪問を前にしての録音だろう。現地録音と考えられないでもないのだが、帰国後とは思えない。
ミ・ウルティモ・フラカーソ/ヒル作、余程気に入ったのかその後も再録音をくり返した。54年から55年にかけてロス・トレス・アセスが爆発的なヒットを飛ばした。というよりロス・トレス・アセスはこのボレロで脚光を浴びたのである。マリア・ビクトリアの恨みっぽい歌が後を追った。ビクターもコロンビアも30センチLPの発売期だったから両社とも「55年ヒット集」(4)を出すのだがミ・ウルティモ・フラカーソと後に出てくるラ・エンラマーダはビクター(MKL_1008)ではアセス、コロンビア(DCA_ 13ではパンチョスで入っていた。パンチョスはもう一曲イストリア・デ・ウン・アモールが入っていたがビクター盤ではリベルタ・ラマルケの歌だった(アセスのもう一曲はノ・メ・プラティーケス・ジャ)。このいきさつは次章で分析する。なおミ・ウルティモ・フラカーソは55年のペドロ・インファンテ主演の映画エル・イノセンテにも使われたがパンチョスが出たわけではない(トリオ・タマウリペーコ主演)しインファンテも録音していない。
1)ピアノ奏者ナチョ(イグナシオ)・イリゴジエンとフェルナンド・オカンポのドゥオで50年代中期にはすごい人気で、XEW でゲストを迎えての彼らの番組「二匹の宿なしと星ひとつ(ドス・ブリーボネス・イ・ウナ・エストレージャ)」を持っていた。このグループで興味深いのはイリゴジエンがピアノを弾きながらのトップヴォイスであるのにセカンドのオカンポがマラカスを振るでもないまったくの手ぶらでありながら一見トップのように歌っていることだった。
2)参考までにその曲目はミル・ベーソス/クークールークーク・パロマ/ア・ロス・クアトロ・ビエントス/キエン・セラ/コンティーゴ・ア・ラ・ディスタンシア/セレナータ・ア・ラ・ルス・デ・ルーナ(ムーンライト・セレナーデ)/エスピニータ/ドス・クルーセス 

3)ひとくちにスペイン語といってもスペイン現地とメヒコはじめラテン・アメリカとでは発音がちがう。ことにZの発音はラテン・アメリカにはなく、すべてSと同音である。これに地方なまりが加わり、東北弁と江戸ことばほどではないが、プエルト・リコ人が早口でしゃべったら、聞き手はお手上げ。
4)このLP62年に日本ビクターが出したことがある。メヒコではとうに廃盤になっていた。

三枚のエースという中途半端な数のロス・トレス・アセスは(1925329日)シナロア州クリアカン生まれのエクトル・ゴンサレスが1942年にアントニオ・ペレス・メーサ、ファン・ネリと作ったトリオ・クリアカンが前身(1)で、ランチェーロを歌っていたがマリアーノ・リベーラ・コンデが着目、パンチョスの対抗馬に育てようとビクター専属に迎えた(ペレス・メーサがマルコ・アントニオ・ムニィスに交替)がミ・ウルティモ・フラカーソで大穴を獲ったわけである。ムニィスが独立―メヒコのポピュラー界を代表するソロ歌手に成長―ダニエル・カブレラが加入して61年にウン・ポーコ・マスを当てたあたりまでが華で、メヒコ屈指のレキンティスタだったネリも退団(自身のトリオを持ったが成功せぬまま物故)(c)、ゴンサレスがトリオを継続したがメンバーはめまぐるしく変転した。
シエン・ムヘーレス ヒル作。ミ・ウルティモ・フラカーソと連作みたいな失恋ボレロでやはりアセスも歌ったが当たらなかった。
コンミーゴ・ミスモ ナバーロ作
タン・センシージョ フリート作
 ミ・カニャベラル 同、カンシオン・ヒバラ。先のヒル作プエルト・リコと同じことがいえる。
1) 1942年という年代を考えるとエクトル・ゴンザレスはロス・ランチェーロスのエクトル・ゴンザレスとやはり同一人物か。

(a) Licensed by MUSART, Mexico
Seven Seas SR-762
(b) Hecho en Mexico gas flama FLAG-15 (c) Hecno enMexico ORFEON LP-12-957
Trio Delfines Seven Seas SR-762 Trio Delfines gas flama FLAG-15 Juan Neri con su Los Tres Ases
Hecho en Mexico Trio Delfines
Amor Indio Los Delfines Los Tres Ases y Juan Neri Con su Trio
Pena Penita (ペーナ・ペニータ) Basurto 在団中のロス・デルフィネス Juan Neri 自身のトリオ
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