14 Julito Rodriguez
56年も後半に入っていた。パンチョスはキューバに渡った。キューバはアメリカ資本に牛耳られていた。まさに歓楽境で、カジノに向かう客のために機内にカジノ施設を備えた定期得別便が運行していたほどである。だが革命がひそかに進行中だった。今回のキューバ行きは高名なキャバー(ナイトクラブ)モンマルトルに出演するためだけの気軽な旅だった。ところが空港に降り立ってみると、にぎゃかなさんざめきはいつもながらだがどこか様子がおかしい。
出演の場に着くと、クラブは休業していた。フィデル・カストロはまだメヒコで機をうかがっていたのだが革命闘争は進行中だった。キューバを牛耳っている。フルンシオ・バティスタの独裁政権の将軍ブランコ・リコがほかならぬモンマルトルのエレベータ内で数日前に射殺されたので、クラブは官憲によって閉鎖されていたのである。
出演料全額というわけにはいかなかったが契約金を手にするとプエルト・リコへ飛び、同地でのスケジュールをこなした。トリオ・ベガバヘーニョとの共演もあった。次の公演はカラカス(ベネスエラ)だった。そこではオルガ・ギジョートとの共演もあった。キューバの女性歌手である。キューバ出身の女性歌手といえばセリア・クルスばかりが語られがちだがボレロではギジョートだ。ハバナでデビューののちパンチョス結成の年1945年にミゲリート・バルデスの紹介でニューヨークで成功、50~60年代の録音たるや大変なものだ。しかし革命以来その活動拠点はメヒコに移り、国籍もメヒコだったと思う。56年時点ではもちろんクバーナだ。
このようなベネスエラでの活動の或る日、テレビの「ショウ・デ・メディオディア(真昼)」に出演中、フリートは腹部に激痛を感じた。パンチョスが常に医師を滞同していたのは幸いというべきか(?)。胃潰瘍の初期症状と判った。向後の日程を消化するのは不可能と判断されたのでヒルとナバーロは、ひとまずメヒコに戻りクリーニカ・デ・アクトーレス(芸能人病院)での診療を受けるようにすすめた。症状も重く気落ちしていたのだろう、フリートはしかし家族のいるサン・ファンへ帰る道をとった。
サン・ファンでフリートはオスピタル・デ・ベテラーノスに入院した。退役軍人たちの基金で設立された病院で、ペドロ・フローレスが心不全で死去したのもここである。病状は早く快方に向かったが療養中にフリートはパンチョスたちとの日々を思い返していた。彼らには友愛を感じこそすれ恨みつらみは何ひとつない。しかしあまりにも忙しすぎた。もっと気楽に暮らせないものか、プエルト・リコを本拠にした活動はできないか。彼は恩になったラファエル・エルナンデスにも相談し、パンチョスにはもう戻らないとヒルとナバーロに手紙を書いた。独立するとはもちろん書けず、病気が重いのだろうと解釈した二人から数ヶ月まつから戻るようにとの返信もあったが彼の気持ちはもう変わらなかった。56年11月だった。
ヒルとナバーロはフリートを諦め57年2月に末にエルナンド・アビレスをふたたびトップとして録音を始めるのだがフリートはそれからひと、月もしない3月22日、タティン・バーレ(セカンド)ラファエル・チャロン(レキント)と、フリート・ロドリーゲス・イス・トリオ・ロス・プリーモスを名乗ってサンファンのマテイエンソ劇場にデビューする。バーレの声質はナバーロによく似ているのだがトリオの最初のアルバム(アンソニア)にナバーロの作品でパンチョスが録音していないフロール・デ・ローカがあるのも面白い。
オルティス・ラモスはフリート時代の録音曲は122曲だという。アブレーニャ・ロドリゲスは録音曲をリストアップしていて、こちらも数えると同じく122曲。だがエスカンダロ、ドゥルセ・ドゥルセ・ドゥルセ、ハカランドーサ、ウナ・アベントゥーラ・マス、ピンポージョが入っているのが合点できない。同名異曲はいくらでもあるからなんともいえないのだがエスカンダロはルーベン・フェンテスの作品しか思いつかないし、それならフリート時代にはまだ生まれていない。ドゥルセ・ドゥルセ・ドゥルセとハカランドーサはアビレス2期に録音される曲だし、ことにハカランドーサは二回も吹込むような曲ではない。シャウ・モレーノの時のウナ・アベントゥーラ・マスも改めて録音するだろうか(これはあとでタネ明かしをする)。わずかに可能性ありとすればピンポージョでたしかにアルゼンチンとウルグアイのカタログに出ており、ロドリーゲス期としか考えようがない。55年ヒット集はビクターはエルマーノス・レジェス、コロンビアではトリオ・アビレーニョで入っていた。
だがそれよりもこれほどの曲が本当に発売されたのだろうか。ざっとLP10枚分である。そのLPにしても過渡期であって、まだ主流はSPだ。毎月一枚出された勘定になりはしまいか。そのことはそんなに驚くほどではないかも知れない。ラテンアメリカのレコード文化先進国アルゼンチンに目をむけてみよう。1926年11月8日にこの国では電気録音が始まったのだが、その時から年末まで、時にはジャズめいたダンス音楽もやってのけるタンゴのフランシスコ・カナーロ楽団の録音量はざっと35曲、その内オクラになったのは3曲だけであとはすべて発売されたのだからすごい。だがメヒコはこの例のようには進行しなかった。SP、つまりシングルがどの程度出されたのか疑問である。LPにしてもコロンビアの場会オムニバスが多かった。(以下のLPはすべて30センチ盤をいう)。つまりオムニバスLP一枚はSP六枚分に相当する内容があることを示したかったのだろう。DCA1から5まではすべてオムニバスで、_6が歌手ニコラス・ウルスライ、_7がパンチョスだった。このようなオムニバスは寿命が短いので内容を知るのが困難である。
DCA_7はフリート期のラーラ曲集なのだが、フリート期のそれ以外のLPは出されたことがあるのか、どうも疑問である。コロンビアは廃盤への期間が短く、例えばアルビーノになってからの最初のアルバムDCA_92など64年のカタログから消えてしまっているのだからフリート期のLPも早晩なくなってしまったのかも知れない。だがそれにしてもDCA_92以前のアルバムで残っていたのは三枚だけというのは解せない。その一枚は二期アビレス、フリート、シャウ・モレーノ格四曲のオムニバスである(「みっつの時代第一集」と題しながら第二集が出された形跡がない)注、1.)鍵はあとの二枚DCA_25と28「エポカ・デ・オーロ(黄金時代)」1・2集(注、2)にあると思う。
発売時期は56年だろう。遅くとも57年である。アルブン・デ・オーロすなわちゴールデン・アルバムならいざ知らず黄金時代とは現在活動中のパンチョスは盛りをすぎた抜けがらですよといっているようなものではないか。たかだか表題のことで目くじらたてる必要はないといわれそうだが、そう簡単に片づかないのだ。いったいにメヒコのパンチョス・フアンは現代よりも前代を好む傾向がある。アルビーノ時代、彼はケチョンケチョンにこきおろされた。
それがカーセレスに替わるとアルビーノは良かったなあに変わる。そして誰をさしおいてもアビレスなのだ。フリート期はパンチョス史上最も充実した時代と評価できるが、メヒコでの一般的な評価は決してそうではない。一般だけではない,,コロンビア内部においてもそうだった。
もうひとついえることは、発売する、しないに拘らず役立つこともあろうから彼らの余殿にはどんどん音を残しておこうという姿勢もありはしなかっろうか。これは美空ひばりの通販アルバムの広告に並んでいる曲目に気づいたのである。女王の十八番(川の流れのようになどなど)が欠けるわけはないが、大半が雨のブルース、リンゴの唄(追分ではない)、夜のプラット・ホームといった日本の流行歌に暗い私だから断定はしないが彼女が生前活動の中に市販されたとは思えない曲ばかりなのだ。彼女の意志とは関係なく、格安の通販で役立っているわけだ。
このような録音の利点のひとつにラジオ放送がある。テレビでもよいのだが、レコードになっていない歌たが流される。「放送で聴いて好きになったけれど、レコードが出てなかった」という声をしばしば耳にする。外国での販売も目的のひとつだろう。外国で拡販しようにも、
もともとコロンビアは持ち駒が少なかった。30センチLP時代に入ると単独LPを出すのに窮してしまう。フリート・ロドリゲスがハビエル・ソリスを発見してくれたのでオーケストラ伴奏やらマリアチ伴奏やらいろいろ試してみたがすぐに人気者にはなれなかった(59年のジョララス・ジョララスまで待たねばならない。だがコロンビアは彼に賭けていたし、その信頼は裏切られることがなかった)。アメリカ・コロンビアに働きかけようにも、クコ・サンチェスやエルマーナス・ウエルタではあまりにもメヒコ人むけだった。ロックのエンリーケ・グスマンもカリフォニアならともかく全米的ではない。それだけではない。エルビス・プレスリーやらハリー・ベラフォンテやらビクターがホクホク顔だというのにコロンビア自体がしょぼくれていた。こんな具合だったからCL_752ラテン・アメリカン・ベスト・セラーズでメヒコもの、つまりパンチョスものは打ち止めにしてしまう。そしてこのことは米国とメヒコのコロンビアの共同作戦だったと思われるのだがパンチョス盤のゲタをティコとシーコに預けてしまう。このことはもう少し先で推測してみる。
ティコといえば、のちにニューヨーク・ラテンの大御所として君臨するティロ・プエンテ楽団のヒットで大をなしたような会社で、56年ごろ30センチLPや発売時のカタログにはアメリカで活動するラテンバンドがずらりとならぶ(注、3.)(ペレス・プラードとかハビエル・クガーとかはお呼びじゃない)のだが、メヒコものもあってもいい、それもパンチョスならと話に乗ったのではないか。いわゆるライセンス契約である。それにしてもその第一発メクシカン・ホリデイ(副題ロス・パンチョス最も名高きスタンダード集)の内容に驚く。ジャケットに曲名がまったく記されていないにもせよ、例のベスト・セラーズのシン・ティとシン・ウン・アモールをアスタ・マニャーナとカンタ・モレーナに替えただけなのだ。LP_1032サウス・ボーダーはDCA_7ララ曲集とまったく同じだし、LP_1034セレナーデスは楽団伴奏の12曲で、楽団伴奏の録音はもともとティコ盤を作るための企画だったのではないかと思えてくる。つまりメヒコでの発売は考慮されていなかったと。そうであればこのレコードの曲目の奇怪さも理解できないでもない。それにしてもセレナーデスとは珍奇なタイトルではある。なおこれらの製作にはルーレット・レコードが仲介に入っているらしい。
ティコにはこのほかにもいずれもアビレス期とフリート期を半々にしたLP_15フィエスタ・イン・メクシコと_31ボレロスとがあったがシーコ盤はただ一曲を除きロドリーゲス期の録音で組まれた。タイトルはティコの一枚とまったく同じサウス・オブ・ボーダーでSCLP_9078(のちに同社の別レーベル、ブロンホBR_118になる)曲目は
ラ・エンマラーダ/ シン・ベン・トゥーラ/ セレソ・ローサ/ ウナ・アベントゥーラ・マス/ クエスタ・アバーホ/
 ペーナ・ペニータ/ ソンブラス/ ミス・ティニエブラス/ アルマ・ジャネーラ/ イストリア・デ・アモール/ ペルドン/ アバンドナーダ。参考までに申し添えると"愛撫の声"とうたわれたビルヒニア・ロペスのシーコへのデビュー盤(56年録音)はSCLP_9012(C)だった。興味深いことにこれらのシーコ盤は直輸入の形でメヒコではピアレス・レコードが発売していたから、ロドリゲス期のパンチョスはコロンビアが出さなくても入手できた。ピアレスはシーコのカタログまで作っているが、ピアレスのLPリストには掲載されない。同じようにティコ盤もメヒコではどこぞの社が輸入販売してはいなかっただろうか。もしそのどこぞの社がほかならぬコロンビアであったなら「エポカ・デ・オーロ」以来の空白に、同じようにアメリカでも「ベスト・セラーズ」以降WLシリーズ発売までの空白に説明がつくのだが、以上はあくまで推定でしかない。なおコロンビアはドリス・デイとかパーシーイ・フェイスなどのLPをアメリカとおなじCL(ステレオはCS)記号で出していたが番号は自社の別番号だった。そこにはハビエル・クガートも名をつらねているが、パンチョスはない。
(15)シーコにはもっとパンチョス盤があったはずだが番号がわからない。58年に日本では日本ビクターと同系列の別会社ビクターからパンチョスのLPが二種、完全なオムニバスまで加えると三種出されている。完全なオムニバスといったのは・・・(15)へ
注、1)X集とうたったのはEPと呼応しての結果だろう。EPのほうではEPC_59 第一集(エスペラーメ・エン・エル・シエロ エキボカステ・エル・カミーノ ボイ・グリタンド・ラ・カージェ ウン・ミヌート・デ・アモール)、EPC_60第二集(a)(カンシオネーロ ラ・バルカ エル・レロー サブラ・ディ・オス)が出された。
だから続編があったのかも知れない(希望的観測である)。以上アビレス2期の録音なので58年以降の発売。
注、2)EPはEPC45~50(1~6集)に分散。収録曲はLPと同じで、どっちかだけに入っているというような曲はない)
注、3)いわゆるサルサ。ティト・プエンテ自身はサルサという呼び名を好きではなかったようだ。もっとも当時にはこんな呼称はなかった。
Aviles 2 Aviles2b Virginia Lopez SEECO SCLP 9102
(aAvilés 2期 EPC-60 EPC-60 写真裏焼きである. CVirginia Lopez SEECO SCLP 9102
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