16 Cuarteto Avilés / Los Tres Caballeros
フリート・ロドリーゲスは戻らない、そう悟ったヒルとナバーロはエルナンド・アビレスに働きかける。なおアビレスとロドリーゲスはその生涯つうじてただの一度もあったことがなかったという。ところで1951年の南米巡演中にパンチョスを去ったアビレスはどうしていたのだろう。芸能界から身を退くなどとは考えもしなかった。そして自分の声が楽団伴奏でのソロではなく、コーラスの中でこそ活きることを今までの経験からよく知っていた。そしてこれも経験から学んだのだろう、一から出直すよりも既成の売り出しそこねているコーラスを活用すべし。
後年にもこうして大成功する(Los Tres Reyes)するのだがこの時はロス・ヒターノスというトリオに着目して、クアルテートを組む。当初はエル・パンチョとロス・カミナンテスと名乗るつもりだったそのクアルテートの顔ぶれは、無論アビレスをトップに
ファビアン・レオン=セカンド。
サルバドール・ガルシーア=サードとレキント
ギジェルモ・ロメーロ=フォースと第2レキント
であった。アビレス以外の三名がヒターノスの面々である。そしてロメーロはフォースだけでアビレスがマラカスとレキントを担当したとする資料もある。ギターの分担は不明。前述したようにアビレスのギターの腕前はひとかどのものだったし、(ロス・パンチョス映像でもカナリの腕前が)パンチョス脱退の理由のひとつにオレのレキントあってのパンチョスとするヒルへの不満があったのだったとしたら彼がレキント役と考えられらくもな。52年に本格的デビューをするロス・トレス・アセスのファン・ネリもレキントでトップ・ヴォイスだ。だがロメーロが本当にフォースだけの担当であるならアルゼンチンのロス・シンコ・ラティーノスやその手本になったアメリカのザ・プラッターズのようにソロがとれる魅惑の低音の持ち主だはなくてはならないのだがアビレスのクアルテートにそれは聴かれない。だが、そして成功したとはいいがたいのだがこのクアルテートがダブル・レキントであったのは事実で、まさしく新軌軸であったろう。こうしてかれらはコロンビアに録音することになるのだが、エル・パンチョと道行く人たちという名は流石に引っ込めて、クアルテート・デ・エルナンド・アビレスを名乗った。パンチョ氏が匿名のままならともかくアビレスであることはすぐに分かってしまう、パンチョスへの対抗意識みえみえではないか。それにもうひとつ、当時カンシオン・ユカテーカが専門のロス・カミナンテス(a)というトリオが活動していたのである。当然SPが出されたはずだがLPは64年になって廉価格盤のハーモニーから出され(HL_8125)内容を少し変えてわずか二年のちの67年にオケーOKL_10155が出る。その曲名は次のとうりで、日付けはオルティス・ラーモスによる録音日(52年)である。そしてレキントが2丁とされているが、たしかにそれと分かる(我々は耳だけが頼り)個所があるのだが...。
▲ウナ・アベントゥーラ・マス / 4月15日。シャウ・モレーノ期のパンチョスが録音した。ボリビアでかなりヒットしていたのだろう。パンチョスがボリビア入りする前の国ペルーでもヒットしていたのかもしれないが、いずれにもせよアビレスは現地で憶えて来たはずである。楽譜を持ち帰ったなどとは考えられない。
▲アルボラーダ / 同、セリス・ラミーレス作
▲アディオス・イ・ブエナ・スエルテ / 同
▲マス・ダーニヨ・イ・イシステ / 同
▲デリカード / 4月20日
▲ペルベルサ / 同
▲カンシオン・デル・カミナンテ / 5月14日、ルイス・ピグ作
▲マリルー  / 同、L.ファビアン(ファビアン・レオンのことだろう)とJ.プランテ作
▲ミ・ノビア・エスタ・エンフェルマ / 5月28日、ボビイ・カポー作
▲カミーナ・カミーナ  / 同
▲ジェゴー・エル・アモール / 6月6日、チューチョ・マルティネス・ヒル作
▲ラ・イーハ・デソベディエンテ / 同
▲エン・ミ・ペンサエント / 6月10日、ボニフィシオ・ビジャセニョール作
▲ア・ドンデ・エスタラー  / 同、アビレス作バルス
▲トードス・ブエルベン  / 同、セサル・ミロー作バルス・ペルアーノ。後年レジェス時代の録音を見てもアビレスは南米のワルツ系の曲を好んでいたようだ。
▲ドゥーダス・デ・ミ  / 8月13日
▲ジャ・ノ・ジョーレス・コラソン /
▲オルビーダメ / 10月15日
▲キンセ・アニェーラス
▲バイラ・コンミーゴ / 同、アビレスとヒルベルト・ウルキーサ作。ウルキーサは1943年以来メヒコで活動したキューバのトリオ・ウルキーサ(ビクターに録音)のメンバー。
▲カリーニョ・パラ・テイ / 同。
これで52年の録音は終了した。この期間中パンチョスは不在だったのだし、そのステージでの評判もよかったろう。舞台ではコンティーゴやラジート・デ・ルーナなどゆかりのレパートリーも歌っていたらしい。次の録音は年も明けて53年4月だがSPが発売されたのならこの間である。この録音中断の合間にアメリカや中米に旅したが、半年も空白がある。
▲ポル・パサール・ウン・ラート / 4月16日
▲ゴロンドリーナ・デ・アルバール /
▲エル・ディア・デ・トゥ・ボーダ / 4月22日。未聴なので断言はしないがドゥランゴ州出身のアドルフォ・サラス作のポブレ・デル・ポブレ(54年出版)のことではないかと思う。51年にポブレ・デ・ポブレという映画が作られていてディアマンテスも出演したのだそうだがキミの結婚式の日には(エル・ディア・デ・トウ・ボーダ)アヴェ・マリアを歌わせてと訴える、金がなかったばっかりに恋する人と結婚できなかった文なしのはかなさ(ポブレ・デル・ポブレ)を歌う。60年にデルフィネス版がヒットしたから、その時にタイトルを改めたのかも…。
▲ヌエバー・インキエトゥー / 同
▲セクレート /不明、アンパーロ・バルアルテ詞、フランシスコ・レジェス・ピングロ曲バルス・ペルアーノ

コロンビアに録音したのはパンチョス時代でのつながりを活用したのだろうし、パンチョスが頼りにならない状況にあってはコロンビア側も乗る気だったろうことがその録音量からも察せられる。そして同時に察しがつくのは53年4月には状況が変化していたことである。パンチョスは新人を加えて蘇っていた。その新人も4月にはメヒコに居をかまえていた。最早コロンビアは擬似パンチョスを必要とはしていなかった。だがアビレスも敗けてはいない。どのようにしてかビクターで以下の曲を53~54年に録音した。
▲ラ・カンシオン・デ・モリーノ・ローホ / 画家ロートレックを主人公にした52年の映画ムーラン・ルージュ(赤い風車)のテーマ曲で53年にロス・デルフィネスが録音した。
▲カンディレハス / チャップリン主演の52年の映画ライムライトのテーマ曲でこれもデルフィネスが録音した。チャップリンの作だがデルフィネス盤にはチャコンの名が併記されている。
▲アウンケ・メ・クエステ・ラ・ビーダ / ドミニカのルイス・カラフ作で54年出版。
▲コントラ・エル・デスティーノ / ラファエル・デ・パス作ランチェーラ
▲トレス・ディアス 新進作家として売り出し中だったトマス・メンデス作のランチェーラ、54年刊。
▲キエン・セラ / (ミ・ウルティモ・フラカーソ3に)前述のようにデルフィネス(ムサールト1000)がヒットさせた。作者はパブロ・ベルトラン・ルイスだが本当は53年当時金策に窮していたルイス・デメトリオ(b)から買ったのだという。一方は曲を抵当に借金のつもり、他方は買ったつもり、しかもヒットしてしまったので両者の仲はこじれてしまった。デルフィネスの初版SPではルイス・デメトリオの名がクレジットされていたが増刻盤ではベルトラン・ルイスになっていたとイルカたちの二頭 チュウチョ・オロワルテは証言する。なおクアルテーロ・アビレスのキエン・セラのSP番号は今回9245とまで分かったが片面は不詳。
▲ノクトルナンド / パブル・カイミ 作ソン・モントゥーノ
▲トント・コラソン / エリセオ・バルビディア作
▲ビディータ / アレハンドロ・サン・エステバン作
▲オージェラ・カンタラ  / チューチョ・ロドリーゲス作。この曲は61年春に来日したトリオ・ロス・トロバドーレス・デ・メヒコが日本で録音した(ビクター)。
▲バニドーサ / アントニオ・カストロ作
▲ベンディータ・セア / クラウディオ・エストラーダ作
▲ミ・デスティーノ / アブラン・セルバトゥーラ作
▲オフレンダ・フローラル / セベーロ・ミロン作 

コロンビア盤もそうだがこれらのレコーディングは特別製作盤ではなかったかと思われてならない。特別製作部という、社によって呼称はいろいろだが大手のレコード社にはそのような部署がある。ここでいう特別とは料理屋の上・中・並の上の特上とは意味が違う。レコード会社にレコードを作ってもらうのである。なんらかの催しで録音した音を記念にレコード化することもあるし観光局がレコード会社の音源で宣伝用のレコードを作ってもらったりもするがいずれも本質的に非売品である。そしてもうひとつはアーティストが音を持ち込むなり、スタジオを利用するなりしてレコードを作ってもらうケースだ。その録音段階でレコード会社に認められればしめたもので販売路線に乗ることもあり得るのである。そしてその利点は盤に堂々と社名がきざまれ番号もつけられることだ。もちろん非売品だがPRには役立つし(c)買い手がいたら売ってもいいがそこでトラブルが生じてもレコード会社はタッチしない。番号も社の正規のものではないしカタログに載ることもない。だが版権は社に残るのだろうか、もしくは何年かしたら完全に消滅するのだろうか。コロンビアが録音から10年も過ぎてクアルテート・アビレスのLP を持ち出したことからこんなことを考えてしまった。なおそのレコードは決してコレクター向けではなかった。
1955年にクアルテート・アビレスはキューバ、ドミニカなど中米に発してベネスエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、チレ、アルゼンチン、ブラジルを巡る長期の旅に出た。その途中ボゴター(コロンビア)のベルガーラ・レコードにトマス・メンデス作のランチェーラ
▲プニャラーダ・トラペーラ
を録音した。これは湯気の出そうな新曲である。結婚にため引退していたアマリア・メンドーサが破局のために54年8月にカムバック四ヶ月のちにボレロからランチェーロに転向してその年の暮に大当たりさせたばかりだったのである。もとより一曲だけではなくて、アウンケ・メ・クエステ・ラ・ビーダ / コントラ・エル・デスティーノ / トレス・デイアス / ノクトゥルナンド /  トードス・ブエルベン / エン・ミ・ペンサミエントなどを再吹込みしている。前の録音が気に入らなかったのだろうか、あるいはこれらが得意曲だったのか。

56年にクアルテートはサン・パウロ(ブラジル)で解散し、アビレスはメヒコに帰る。分裂の原因は週刊誌もどきになるがギジェルモ・ロメーロとチレの歌手ラケール・ミチェル・タレントのラヴ・ロマンスにあったのではあるまいか。この二人はやがて結婚するのだが、アビレスを追い出して彼女を中心としたクアルテートを作ろうと画策したのではないか。あるいはアビレスが去ってしまったのでファビアン・レオンとロメーロはたまたま知り合ったミチェル・タレントを加えたのが、彼女とロメーロとは恋仲になったのか。もう一人のサルバドール・ガルシーアのその後は分からないがトリオ・コンティネンタルにいたチレ人、イバール・レオネル・バラーサを加え56年の内にクアルテート・カンディレーハスを結成した。彼らは62年に来日し、ビクターにラ・マラゲーニャとファン・ゲレーロを録音したがそれ以前にスペイン・ビクターでラジート・デ・ルナ / エル・ウマウアケーニョ  / インディア / アルマ・ジャネーラ / イルシオン・ペルディーダ / エスピニータ / ラ・フィエスタ・リンダなどレコーディングした

こうしてアビレスはふたたびパンチョスに参加するのだがその録音曲に関わりのある、ふたつのトリオのことを先に述べておいたほうが好都合だろう。トリオというより、それらトリオに関係のある作曲家というべきか。まずペペ(ホセ・ヘスス)・ハーラを中心にアントニオ・ペレス・メーサ、ヒルベルト・サウシージョから成るトリオ・ロス・ドゥエンデス。ドゥエンデとはお化け、腕白小僧のことだが、日本でいう座敷わらしのように家にとりついている小妖怪のこともいい、フラメンコ界では一心不乱の状態を”ドゥエンデにとりつかれた”と表現する(いわゆる神がかり)。このトリオはランチェロを歌っていたが56年にオアハーカ州出身の友人アルバーロ・カリージョが作ったボレロ、アモール・ミオを歌って一躍人気者になった(パンチョスが彼の作品エーソを録音したことは前述した)。60年にペペ・ハーラが独立、ノリエーガ(名は不詳)が参加したが同年6月の音楽誌に”ペペなしにドゥエンデスはトリオ・フォンタスマスになってしまうだろう”とある。当時トリオ・ファンタスマス(お化け、ファントマ)というグループが活動していたのをもじったのだ。ペペはヒルベルト・バレンスエラとドゥエット・ミセーリアを組んだりもしたが65年にトロバドール・ソリタリオ(孤独な吟遊詩人)と名乗ってカリージョの作品セ・テ・オルビーダ(ラ・メンティーラ)をヒットさせた。カリージョはアモール・ミオ以降、モダンなあるいは逆に伝統的なフォームのボレロを更にはパシージョやバルス・ペルアーノといった南米の形も使って多くのヒットを生んだが69年4月3日交通事故で他界した。その追悼の意味で彼の曲を集めたパンチョスのアルバムが出されたが新録音は二曲だけだった。おかげでフリート期のエーソが日の目をみることになった。

もう一組はタマウリーパス州タンピーコで同地出身のアントニオとロベルトのカントラル兄弟が1947年に結成したロス・クワトレースである。クアトレースとは泥棒のことだが、その中でも一番タチの悪い、捕まったら縛り首のリンチ確実の馬や牛泥棒である。それはさておき当時アントニオは17歳ぐらいだったはず、この若い二人はご当地ソングのウアパンゴを支流にしていたし、のちにロベルトはおよそ成功しなかったがファルセーテ入りのボレロ・ウアステーコを編み出した。メヒコ市に出た二人は52年にメンバーを一人加えてトリオになり、翌年から長期間アメリカ各地を巡るがこの時SMCに二枚の25センチLP(SMC_559と560を録音している。(d)この時彼らはナウアトル ーいわゆるアステーカ語ー のテコーロトル(ミミズクもしくはフクロウ)に発するロス・テコローテスを名乗っていた。だがこのあたりの事情がもうひとつよく分からない。ムサールトのインボイスによればロベルト・カントラルがメヒコで五本の指に加えられるレキント奏者ベンハミン(チャミン)・コレア、トップ・ボイスのレオナル・ガルベス・ボロンコとロス・トレス・カバジェーロスを組んだのは52年7月で、ロベルトがアントニオとドゥエットで活動したのは後述するエル・レローなどのヒットのあとだという。けれども私はロス・トレス・カバジェーロスは54年か55年にチャミンがカントラル兄弟と作ったトリオではなかったかと考えている。このトリオはマリアチ・バルガス・デ・テカリトランをバックにカントラル兄弟の代表作エル・プレーソ・ヌメロ・ヌエベ(54年刊)などをビクターに録音しているのだ。そのあとであろう。メンバーは同じかどうかアメリカへ行き再びロス・テコローテスの名でSMCに今度はれきっとした12曲入りの30センチLPを録音する(SMC_1021)(e)。このレコードは興味深い選曲がされている。ここにも兄弟の作品エル・プレーソ・ヌメロ・ヌエベがあり、いずれも彼らのウアパンゴでエル・クルシフィーホデ・ピエドラ、ルェーゴ・デ・アモール、クアンド・セ・アクエルデ・デ・ミ(以上54年刊)が並ぶのだがノ・ソン・セーロス、ノ・セ・バージャとボレロがふたつあるのだ。しかも後者はB.コレア作とあり、これはベンハミン(チャミン)に違いない()。先に同じメンバーかどうかと書いたのはアントニオの役割がまったく分からないためで()、この二回目の録音では(h)ロベルト、チャミン、ガルベス・・ボロンコになっていたはずである。にも拘らずカバジェーロスではなくテコローテスとしたのは以前にその名で録音していたためだろう。あるいはビクター盤のほうがあとなのか。
そしてトリオは今後ボレロひとすぢで行こう、と決意した。そこで56年9月5日にムサールで録音したのがロベルト・カントラル作のエル・レロとラ・バルカである。レコード番号は1542、実際にヒットしたのは57年に入ってからで、楽譜の発行も57年である。LP(D_259)も出されるが12曲中9曲がカントラルの作品だった。このトリオにはラウル・シャウ・モレーノが加わった録音もあったが、ロス・トレス・カバジェーロスという名称はチャミンが持っていて、彼以外はまったくまったく別メンバーによるオルフェオンのLPのひとつは彼一人をジャケット表紙にしていた。とにかくそのレキントは達者なもので、しばしばビルヒニア・ロペスのトリオ・インペリオに加わったりしていた。

La Historia
(17)ふたたびエルナンド・アビレスを加えたパンチョスの録音は1957年に始まった。アビレスも乗り気だった・
▲エスペラメ・エン・エル・シエロ/プエルト・リコのパキート(フェルナンド)ロペス・ビダール作。ロス・テコリーネス(テコローテスではない。このグループはあとにも出てくる)版も人気があった。…
(a)パートは分からないがサルバドール・サパータ、カルロス・ペレイラ、ホセ・カピストラーノの三人、ムサールトの専属。
(b)姓はトラコイスだが楽譜上は常にルイス・デメトリオと名前だけ。
(c)60年代のいつごろだったろうか、まことにオソマツな女性歌手 ―名も想い出せない― が来日したことがあり、「私コロンビアに録音しているのヨ」と見せびらかしたLPがこのテのだった・記号がDCA_でもDCS_(ステレオ)でもなく”プロダクト・エスペシアレスCBS”とあることで察しはついたが。彼女のバックを務めたのはチカーノのトリオのトリオ・ロス・ラティーノス(同名のトリオたくさん)で、これまたおソマツだったがなんとダブル・レキントだった。まったくナンセンスだったが、それ以来レキント2本のトリオを目にしたことはない。
(d)カンシオネーロ・メヒカーノ1・2集。SMC_559:エル・カスカベル / ラジャンド・エル・ソル / エル・ランチョ・グランデ / カミナンテ・デル・マジャヤブ / バラフー / ラ・ジョローナ / ラ・エンバルカシオン / マニャニータ・タパティア。SMC_560:ラ・チキータ / エル・アバンドナード / ソルダード・レビータ / ラ・バルカ・デ・オーロ / ラ・アデリータ / ラス・マニャニータス / ペレグリーナ / アソ-マテ・ア・ラ・ベンターナ
e)発売当初からそうだったのかどうか、遂に厚紙のジャケット入りである。(SMC_1842はかっての25センチLP 以下で、SP のように中央に丸い穴のあいた袋入りで中に曲目表がついていた)。ジャケット裏面に全曲の詞が掲載された親切なものだが、解説らしきもの《ジャケ表面の我らがモデル・リンダ・タパンはメクシコ美人。彼女はガブリエル・オリェールによってメクシコで録音されたギター弾き歌いのロス・テコローテスによる本集の12曲を選曲した》とあるだけである。メクシコと訳したことで察せられようが英文(歌詞は西語)であり、メクシコ録音はハッタリ。SMCに録音したメヒコのアーティストにはマリアチ・ペルラ・デオクデンテ、マリアチ・ロス・パルメーロス、マリアチ・チャーロス・デ・ハリスコ、ネストル・チャイレス、★ティト・ギサル、(★伴奏トリオ・ロス・チャーコス)Tito Guizar sings for you, with fhe Trio Los Chicos、トリオ・ロス・ガビラーネス、ドラ・マリアがいた。
)少なくとも54年か55年にムサールトにボレロやウァパンゴを録音した
(1958年ロス・トレス・カバジェーロスがビクターに録音した兄弟作のウアパンゴ、エル・ペーロ・イ・ジョペーロ。
)ピアノ奏者としても活動し、その時はイキがって?フレッド・マクドナルドと名乗る。
h)ほかの曲はデリーリオ(兄弟作のバンブーコ)/ ラ・バンバ / ラ・ラスパ(ハラーベ・タパティオを誰にも踊れるように改変したもので、レコードになるのは珍しい)/ カンピラーナ / エル・フェオ / バハリージョ・バランケーニョ。



★Tito Guizar singus for you, with the Trio Los Chicos
SMC 1098
Trio Los Delfines SH-94 Los Tres Caballeros Temas Rancheros Roberto Cantoral Argentina 19.921 Chamin Correa Los Tres Caballeros en vivo
Trio Los Delfines
Pobre del pobre
Los Tres Caballeros
Temas Rncheros
Roberto Cantoral
Aegentina- Historia de un amor
Chamin Correa
Los Tres Caballeros en Vivo
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