20 Johnny Albino 2
1949年になった。ラモン・オルティスは本業(アナウンサー)が忙しく、とてもスケジュールをこなせなくなったので身を退き、交替にマルティネスの紹介でポンセ生まれのチャゴ(サンティアゴ)・アルバラードが加入したが、彼のセカンドヴォイスでトリオ・サン・ファンは完璧なものになった。この顔ぶれでの最初の録音はノ・ポドレー・オルビダールテとイポクレシアだった。アルバラードは作曲家としても才人で、アルビーノ在団時の録音の内27曲が彼の作品(21曲がボレロ)だそうだが我々になじみ深いのは何をおいてもパンチョスに引き継がれたシエテ・ノータス・デ・アモールだろう。
51年末にはカラカス(ベネスエラ)を訪ね、52年には初めて故郷プエルト・リコの土を踏んだが凱戦興行というわけにはいかなかった。1898年このかたこの島はアメリカ合衆国の領土であった。そして自由連合州として独自の憲法を持ったのがほかならなぬ52年である。それ以前から、そしてこれはプエルト・リコに限ったことではなくどこの国にも自国のアーティストを保護する組合と規則がある。そのありようは国によっていろいろだが、例えば外地から歌手が来たなら伴奏楽団員を連れて来ていてもその半数は訪問した国(この場合はプエルト・リコ)の人を採用せねばならないといったものである。(1)トリオ・サン・ファンもクラブなどへの出演では問題なかったが放送に出る時に引っかかってしまった。とにかく彼らはニューヨーク市民、つまり外国人なのである。そして彼らはプエルト・リコに歌いに来たのだ。自分で弾いているにもせよ、ギターはまさしく伴奏である。
だから彼らは楽器を使えなかった。彼らは歌声だけで、放送のことだから二,三曲なのだろうが楽器の代役を務めたのはロス・アンターレスの面々、レキントがラファエル・スチャロン、ギターがソテーロ・コジャーソ、マラカスがラウール・バルボーサだった。思えば48年にパンチョスがプエルト・リコでラジート・デ・ルーナなどを録音した時にパーカッションが加わったのも組合の規約がからんでいたのかも知れない。
その52年、彼らはアモール・ケ・マロ・エレス、インプレスシアブレメンテなどを録音してから長期間の南アメリカめぐりに出発した。ベネスエラからブラジルへ、そして7月26日はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスへデビューの日だったが、それは果たせなかった。同国の大統領ファン・ドミンゴ・ペロンの夫人エバ(もとの名マリア・エバ・ドゥアンテ)が世を去ったためである。愛妻というだけではなく、実質上エバこそ大統領と呼べる。しかもとびっきりの美人だった(リベルタ・ラマルケがメヒコへ去ったのもエバにうとまれたためだった)。葬儀の間に遺体安置所に押し寄せる人波数十万が重なり合って数千人が負傷したばかりか 八 人の死者まで出したのである。アルゼンチンはひと月に亘って喪に服した。ご想像どおりキャンセル、しかもこれは興行主側の罪ではないとして一文ももらえないままニューヨークへ帰るしかなかった。
アルビーノがブエノス・アイレスで歌えたのはそれから四年のち、やはり冬のことだった(ブエノス・アイレスは南半球、7,8月は冬である。)
1954年、トリオは仲たがいをおこして分裂する。
"アルビーノと彼のトリオ・サン・ファン"というワンマン体制にあとの二人は嫌気がさしたのだろうか。芸の上での見解の相違もあったのではないだろうか。マルティネスのレキントは脱パンチョスの方向を示している(鉄線だからサウンドそのものは当然異なるのだが、ピックで達者に弾きまくるという点ではディアマンテスのサウロ・セダーノに近い)のだが、アルビーノはプロになる以前にパンチョスに魅せられたことを抜きにしてもパンチョス志向であったのかも知れないし、マルティネス型奏法に限界を感じていたとも思える。
その詮議はさておき、アルバラードとマルティネスはチェイート・ゴンサレスをトップにトリオ・カシーノ・デ・サントゥルセを組んだ。チェイートはプエルト・リコではトリオ・ロス・ムルシアーノスで歌っていたこともあるし、トリオ・カシーノを去ってのち ― 正確には"去った"のではない。アルバラードとマルティネスがアルビーノとより(・・)を戻したのだ(だが、ある理由で見限られたのかも)― 後述するが別メンバーでトリオ・カシーノを継続したり、58年にはメヒコへ行ってヒルベルトとラウルのプエンテ兄弟とロス・トレス・レジェス(2)を組んだGheito Gonzáles
(このあとのトップ・ヴォイスがあのエルナンド・アビレスである)が、、プエルト・リコに戻るとトリオ・カシーノを再編成したり。だが彼の生活行動には納得しがたいところがあったという。こう62年12月10日に彼は他界してしまう。なんと26歳の若さだった。どうも麻薬が彼の命を奪ったらしい。言行がおかしくなっていたようで、"ある理由"とはそのことだ。
一方アルビーノはセカンドにフェリーペ・アセベードレキントにマクシモ・トーレスををむかえてトリオ・サン・ファンを継続した。オルティス・ラモスはこの編成での録音12曲をあげている。その12曲が全部だとはいっていないのだが、ここで興味深いことがおきる。その前にマクシモ・トーレスらがトリオ・サン・ファンにいたのはわずか8ヶ月でしかなかったことをいっておかなければならない。其夜其所にトリオは出演していたのだが、ステージもまだ残っているというのに彼はニューヨークへと車を走らせ、街路樹に激突、命を失ってしまったのである。理由はわからないままだ。そんなこともあって55年にトリオ・サン・ファンはオリジナル編成に戻るのだが興味深いというのは、アルビーノがそのどちらのトリオでもイストリア・デ・ウン・アモールを録音しているという事実である。ふたつのイストリア・デ・ウン・アモールの一方のレキントは疑いもなオラ・マルティネス、他方は通常のレキントであり、モクシモ・トーレスと考えてよいだろう。だが、それが収められたCDには"ベネスエラ録音"と明記されているのだ(この録音にはオルティス・ラモスもふれていない)。オリジナルなトリオ・サン・ファンの分裂が54年で再編が55年、そしてトーレスらが在団したのは9ヶ月、その9ヶ月は54年度内ではなく例えば54年7月から55年3月というようにも考えられるし、イストリア・デ・ウン・アモールの出版もヒットした年代も55年であるけれど、その前年に世に出てレコーディングされていたことを示していることにはならないか。また、このレキントがトーレスだという確証もないのだが、このころにアルビーノがベネスエラを訪れたのは事実である。
ここでゴシップ週刊誌が歓迎しそうな話が起きる。アルビーノはベネスエラで同地の人気歌手アルフレード・サデルが作ったウナ・ノーチェ・マスに惚れこみ、トリオ・サン・ファンで録音しようとニューヨークへ持ち帰った。そうこうしている内にトリオはもとの編成に戻りチェイート・ゴンサレスはセカンドにパブロ・デルガード、レキントにフニオール・ゴンサレス(彼は61年から65年までビルヒニア・ロペスのトリオ・インペリオにあってLPジャケットにもエル・グラン・フニオールの名で姿をみせる3)を加えてトリオ・カシーノ・デ・サントゥルセを組む。チェイートは音感も記憶力も達者で、気に入った曲はすぐに憶えてしまうほどだった。どこで知ったかのかチェイートもこの曲が気に入って早速自身のトリオで録音してしまう。たまたまチェイートと顔を合わせた時、アルビーノは彼からウナ・ノーチェ・マスを録音したと聞かされて吹込予定中だったから面白くない、「オレがやるつもりの曲を盗みやがって」と理由にならない怒りからチェイートの車の窓ガラスに傷をつけた。チェイートも負けてはいないジョニイの車に同じことをする。まるで子供の喧嘩で本当のところは大げさに伝えられているだけなのだろうが、アルビーノがウナ・ノーチェ・マスを録音することはついぞなかった。
一方チェイートはよほどウナ・ノーチェ・マスが気にいっていたのかオリジナルは分からないが、メヒコでは二種類出されていた。ひとつはピアレス6238で58年から59年の発売のようだ。時期的にロス・トレス・レジェス入団前、あるいは退団後だろう。
LPもあって(LPL,499)アルバム・タイトルにまでなっているのだが全体の内容は分からない。もうひとつはコロンビアDCA_139.59年のヒット曲を集めて60年に発売されたオムニバス(ちなみにパンチョスはラ・イエドラ)にポツンと入っていた。これはアルゼンチンのアーティスト(4)も含む盤なので、出所不明、58年にメヒコから帰って来てプエルト・リコで吹き込んだのかも知れないが、トリオの形態をとっていた。(5)
La Historia(21).さて、アルビーノのオリジナルなトリオ・サン・ファンのレコードだが、ベルネ盤は…
1.これにも便方があった。例えば出身国がそれとわかる衣装を着るといったたぐいである。24年にアルヘンティーナのフランシスコ・カナロ楽団がパリを訪問した時がそれで、ガウチョ(南米の牧童)の服を着ることでごまかした。以来ヨーロッパでは"タンゴ・バンドはガウチョ姿"と信じられてしまった(ガウチョ・ルックは当時のパリーで大流行したそうだ)。パンチョスはじめメヒコのトリオなどが日本のステージでチャーロ服をきているのは、もちろん法律とは関係なく、お国ぶりのアピールだが、どこかカナロ楽団のケースを思わせるもする。
2.ムサールトに録音。
D_475 エル・エスペーホ / ジャ・ノ・テ・アクエルダス・デ・ミ /
エル・ウルティモ・ミヌート / エスクリーベメ / トード・イグアル / ジャ・ノ・エスタス / アジャ・トゥなど。
3.メヒコRCA MKL_1408,
日本盤RA_5079.
A
1)Amar y Vivir
2)Mucho Corazón
3)Piensa en Mí
4)Noche de Mi
5)Nunca
6)¿En Qué Quedamos Por Fin?
Virginia Lopez RA_5079
RA_5079
B.
1)Cada Noche un Amor
2)Incertidubre
3)Bésame Mucho
4)Espinita
5)Solamente una Vez
6)Que Te Vaya Bien
4.例えばロス・シンコ・ラティーノス、のちにタンゴ歌手になったが当時はボレロを歌っていたロベルト・ジャネス。
5.週刊セレクシオネス・ムシカレス誌のヒット・パレード(曲が主体で、誰による歌が、ということではない)では日付けは不明だが60年5月に4位、先週に6位ヒット・パレード10位内に入って3週めとあるチェイートのレコード番号は4598.セレクシネス・ムシカレスは記者のロベルト・アジャラが発行人で、レコードや楽譜の売れ行きやジューク・ボックスにかけられた度数などにもとずくデスフィーレ・デ・エクシトス(ヒット・パレード)を48年9月の創刊以来続けていた。
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