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さて、アルビーノのオリジナルなトリオ・サン・ファンのレコードだが、ベルネ盤は皆目分からない。南米コロンビアのフェンテスからベルネ原盤と明記してLP5枚60曲が出されていたが、メヒコではピアレスが多く出されていた。("多くを"といったのはアルビーノがパンチョスを去って自身のトリオを組んでからの盤も多いからである)。 トリオ・サン・ファンは手元のカタログでは、78回転盤時代に二枚 3732 ビーベス・エン・ミ / アモール・ケ・マロ・エレス 3762 プーロ・エンガーニョ / コラソン・ネグロ 前後の(他のアーティストの)レコードから52年か53年の発売で、これで先に述べた"52年にアモール・ケ・マロ・エレスなどを録音してから南アメリカめぐり"の裏がとれる。アモール・ケ・マロ・エレスはこのころディアマンテスも録音しているが、作者のルイス・マルケティはキューバ人。 オリジナル編成でのイストリア・デ・ウン・アモールはピアレスからSP(EP シングル)で出されることはなかった。それよりもなにはさておきアルビーノがパンチョスに持ちこんだアルバラードの傑作シエテ・ノータス・デ・アモールである。(★0.a)この曲をメヒコに紹介したのはビルヒニア・ロペスだったと推定する。56年にニューヨークで録音(シーコ)したカリニート・アスカラードのヒットにより彼女は57年メヒコへ招かれるのだが、伴奏のトリオは同行せず単身だった。そのトリオはロス・トレス・レジェスと名乗っていたが、メヒコにもヒルベルトとラウルのプエンテ兄弟とウンベルト・ウルバンによる同名のトリオがあったので彼らにバッキングをさせた。こうしてムサルトに録音した4曲(オルフェオンにもLP2枚分)の内のひとつがシエテ・ノータス・デ・アモールだった(★1)。) トリオは完全にバッキングだけだから盤にトリオの名もないし、すぐに分裂してしまう。ロス・トレス・レジェスが一角のトリオとして現れるのは先に述べたようにチェイート・ゴンサレスを迎えてからである(それも一年と続かないで、トップにはエルナンド・アビレスという大物が参加する)。申しそえるとビル(ビルヒニア)の伴奏トリオがあらたに組まれたのだが、そのトリオはロス・トレス・レジェスを名乗りようも、トリオ・インペリオと名づけられた。 以上からビルはニューヨークからトリオ・サン・ファンのシエテ・ノータス・デ・アモールを聴いて覚え、メヒコにもたらしたと分かる。そのトリオ・サン・ファンのシエテ・ノータス・デ・アモールはピアレス5707(裏面はウン・コンセーホ)、57年58年の発売だ★。興味深いのはそのLPだ。LPL_275もトリオ・サン・ファンのLPである。つまり二枚連続して出されたということになるが、ピアレスがひとつのアーティストのLPを連続発売するのはアルバムの記号がLPL LDを経てからMに変わった時(★2)のペドロ・インファンテ盤の再編成(★3)とか、輸入販売していたシーコ盤を正式にピアレスの名で出し始めた時(★4)などに限られている。それに月々の発売枚数から推すと、この二枚が出されたのは58年夏にアルビーノのパンチョス入りが公表された時ではなかったかと思われてならない。つまり対抗盤だったのである。LPL_276に至ってはアルバム・タイトルからもそれが感じられる。いっぽうやはり58年から59年発売のEP盤EPP_269にはシエテ・ノータス・デ・アモールこそないがアルビーノがパンチョスに持ちこんだデサンアンダンドが入っている(シングルもあった)。 これらのLPの内容は、 LPL_275=エスピニータ / ナトゥラルメンテ / アモール・ケ・マロ・エレス / ロス・ドス / カプリチョーサ / カリニート / ノ / ケ・カミナオ / コモ・ノ・ベサス・トゥ / ピエンサロ・ビエン / プーロ・エンガーニョ / コラソン・ネグロ LPL_276=カミーノ・ベルデ / シエテ・ノータス・デ・アモール / ウン・コンセーホ / シルベリオ/テン・フェ(★5)/ コンベンシーダ / ミ・ノビア・エスタ・エンフェルマ / ノ・テ・アス・プード・クエンタ / タブー / マル・イ・シエロ / ニエーガロ / ヌエストロ・フラカーソ このあとにLPL_335(ある恋の物語、など)、_382(デサンダンドなど)があったのだが62年には前出の二枚ともども消えてしまう。 それからM_1335までトリオ・サン・ファンのレコードはない(先にいったようにピアレスのLPは記号が変わっても追い番である)。このレコードが曲者で、題して「ジョニイ・アルビーノとアレグリア・デ・ナビダー(クリスマスの喜び)」。このテのレコードはクリスマス・シーズンにしか出されず、M_1337もクリスマス・キャロルのアルバムだ。はじめ66年にアルビーノがパンチョスを辞した年の盤かと思ったのだが前後のLP の曲目から67年と分かった。ベルネ録音とも記されており、さりとてピアレスが編集したとは考えられずベルネからこのようなアルバムが出ていたのだろう。その内のヌエストラ・ナビダーとプレパーレセ・ミ・コンパドレは5918として57年か58年に出されていたはずだ。それにしてもボラーチョ・ノ・バーレが入っているのはどうしてだろう。酔っ払いのネズミが主人公の内容のこの曲はクリスマスのざれごととこじつけられないでもないが、それは日本的解釈だ。もっともプエルト・リコのクリスマスはかなりのドンチャン騒ぎをするらしいが。そのあとにM_1380、1384、1394、1414、1454、1474、1557への付石だったのかも知れない。1414は自身のトリオによるクリスマス・アルバム(何故かソモス・ノビオスも入っている)、これらが出されるとともにトリオ・サン・ファン盤はすべて消えてしまう。”自身のトリオ”ということばが出てきたが、アルビーノは1958年から66年までパンチョスにあったことを前提にして、話が飛ぶが66年以降についてざっと記しておこう。 ニューヨークへ帰った彼は電気店を継続する一方でスターブライトというレコード・レーベルをたて、自身のトリオを結成してそのレコードを出す。もっとも、このレコードが彼以外の盤を出していたのかは疑問だし、レーベル名がスターブライトで社名がスターダストのもあれば両方ともスターダストのもあったりする。70年代までスターブライトは継続したはずでM_1557は76年の発売だ。だが77年にはオルフェオンからLPを出しているから(LP16SO_5066)からスターブライトとピアレスの関係は切れたか消滅したか。それから10年、アルビーノはパンチョスとを名乗って来日する。 アルビーノがいう(69年来日時)のには「私が脱けた時点でトリオ・サン・ファンは消滅した」。アルバラードとマルティネスはトリオ・サン・ファンの名に執着し、その名で活動したことを百も承知でのことばでであろう。たしかに"ジョニイ・アルビーノと"でないサンファンなどあり得ないのである。が、アルビーノが去ったあと、パキティン・ソートをトップ・ヴォイスにしたトリオ・サン・ファンはベルネで録音を始めた。彼は声も唱法もアルビーノに似ていた。新しいトリオ・サン・ファンを耳にしたオルフェオンはパンチョスの対抗馬になると確信、彼らをメヒコに招き録音させ(ステージにも出演)同社があらたに廉価レーベルのディンサで発売した(DML_8102(★6)。★アルバム・タイトルはシエテ・ノータス・デ・アモール、60年のことである。その後もトリオ・サン・ファンはプエルト・リコでも録音したりして、レコード量はかなり多いらしい。 (★6)Siete Notas de Amor Paquitin Soto Trio San Juan |
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La Historia(22) 50年代に話を戻そう。55年にトリオ・サン・ファンはもとの編成になったのだが内輪もめは絶えなかったらしい。それにしても継続していたのだから不思議だ。こうして57年に前に記したようにニューヨークのプエルト・リコ劇場でアルビーノがアビレスの代役を務める。不承知であったに違いない。…… | |||
(★0)まったくアルビーノのソロ(楽団演奏)も含まれていた。★Johnny Albino Siete Notas de Amor 6128 | |||
a)正確な発表年は不明だが本文に記した年代から分かるようにサウンド・オブ・ミュージックのドレミの歌より古いことは確かだ。このミュージカルが初演されたのは59年である。59年といえばあとで記すがアルビーノがとっくにパンチョスで録音していた。 | |||
(★1)D_276 ラス・ボセス・ロマンティカス(オムニバス) | |||
(★)58年7月ごろ(月日不詳)のメヒコの週 刊セレクショオネス・メヒカノス誌のヒット・パレードでは先週の8位から2位に上昇、レコード五種。ちなみに一位はレガーラメ・エスタ・ノーチェ。 | |||
(★2)記号が変わっただけである。例えていえばLPL_1.2 LD3.4, M5.6と番号は追い盤。LDに変わった時はステレオの発売時(59年ごろ。それ以前にもステレオはあったがSPLという記号で番号も違っていた。例えばSPL_10はLPL_457と同じ内容である。 | |||
(★3)M_1050から1079まで30枚!。それで驚いてはいけない、M_1081~82は箱入り3枚組(流石にこれだけは曲が重複する)。いずれにもせよ、とっかえひっかえとはいうがLPL_223,_476,M_1066はまったく同じ内容である。 | |||
(★4)ビルヒニア・ロペスのカリニート・アスカラードなどが収められて シーコSCLP_9102はピアレスが輸入販売していたが録音から10年ほどすぎて M_1198としてピアレス自社のレコードのカタログに登場する。こんなわけでM_1243から1260までは1247を除きシーコ原盤、もっと正確にいえばソノーラ・マタンセーラかその伴奏というかセリア・クルスなど専属歌手のレコードだ。もちろん盤面にはピアレスとともにシーコのマークも入っている。 Virginia Lopez SEECO SCLP_9102 |
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(★5)シン・フェの誤りではないか(この曲については、ずっとあとにでてくる) | |||
(★6)のちに64年ごろやはりオルフェオンの廉価レーベルのマヤに移りLY_70164 ★Paquitin Soto Trio San Juan | |||
★もう一枚のDML_8133にはチャゴの父フリオ・アルバラードの作品シンティエンド・セ・ガーナ・マス、ラ・ノーチェ・イ・トゥ、ウン・ロブレーゴなどが含まれ、チャゴの作品だらけの8102と対照的だった。フリオの作品は20年代末から30年代に記録があるので、この時の新作とは思えない。 | |||
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