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50年代に話を戻そう。55年にトリオ・サン・ファンはもとの編成になったのだが内輪もめは絶えなかったらしい。それにしても継続していたのだから不思議だ。こうして57年に前に記したようにニューヨークのプエルト・リコ劇場でアルビーノがアビレスの代役を務める。不承不承であったに違いない。しかしそれを完璧にやりやり遂げてしまったことで世の中は変わる。ヒルはアルビーノにいった、「アビレスの健康状態は最悪だ。だがそれよりも何よりも私とアビレスの仲はうまくいっていないんだ」。そしてヒルとナバーロは口を合わせた、「いつかキミがパンチョスに必要になるときがくる。その時の心の準備をしておいてくれないか」。 58年5月、パンチョスはブエノス・アイレスを訪れた。南半球のアルヘンティーナでは秋である。今回の滞在は5ケ月に及ぶ長期予定だった。先に記した7月8日以降、ことにミ・ブエノス・アイレス・ケリードがアルヘンティーナでの、まさしくご当期録音なのもうなずける。南アメリカ最大の放送局ラディオ・エル・ムンド出演、そして結縁であるニアトロ・マイプー公演はロング・ランだった。そうする内にヒルとアビレスの中はまたまた険悪になる。新しいトップ・ボイスが見つかるまでの条件でアビレスが歌い続けたのは前の分裂のときと同じ、ただ前回はアンデスの山の中、今回は山脈のずっと東の海岸であった。ヒルはすぐさまニューヨークのジョニイ・アルビーノに電話を入れる。“いつかキミがパンチョス必要になる時が来る”,まさしくその時が来たのである。もちろんアルビーノがふたつ返事でブエノス・アイレスに飛んだとは思えない。トリオ・サン・ファンもスケジュールを持っていたはず、それをキャンセルして抜けるなどということは、こちらも内輪もめして、いたにもせよ出来ないことだ。アルビーノもまた、それを解決する時間を必要とした。そのあたりのことがメヒコの「ラディオ・カンシオネーロ」誌58年第6号(b)の記事にうかがえる。“アルバラードはプエルト・リコへ去り同地で自身のトリオを結成した。マルティネスは或る有名な楽団に加入したし”。アルビーノはヒルとナバロ合流すべく9月1日にブエノス・アイレスに出発する”。アルバラードとマルティネスの行動はこの記事のとおりかどうかは別として トップ・ボイスの交替、その準備(練習)のため、パンチョスはマイプー劇場出演を数日のあいだ休ませてもらった。 前のプエルト・リコ劇場でのアルビーノは代役だったから、ちょっと音合わせをしただけで彼の憶えていたパンチョス・ナンバーを歌えばそれですんだし、客もその代役を楽しんだりもしたかもしれないのだが今や彼は正式にメンバーの一員である。リピーター客もいるだろうし、メンバー交替を無言で押し通すわけにはいかないだろう。またアルビーノが得意にしている曲もレパートリーにしなくてはなるまい。いっぽうアビレスはアルビーノの到着寸前にメヒコへ帰ったと思われる。アビレスとアルビーノは対面することがなかったはずだ。 とにかくこの交替劇は大成功だった。10月20日に(a)にパンチョスはアルヘンティーナ・コロンビアに録音する。そのあとで彼らはブラジルに向かう(先の「ラディオ・カンシオネーロ」は“アルビーノのパンチョス・デビュー地はブラジルになるだろう”と推定未来形をを用いている)ので、彼らは実際に5ヶ月間ブエノス・アイレスにいたわけだ。その曲目は、いかにもブエノス・アイレスでの初吹込みである。 |
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●シエテ・ノータス・デ・アモール / チャゴ・アルバラード作。アルビーノの持ち込み曲。 もちろんトリオ・サン・ファンとは大幅にアレンジを変えており、やや説明的ではあるけれどもドレミの7音階を用いた構想がみごとに図解されている。 |
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●ハマス・ハマス / ナバーロの新作。アルビーノの唱法をふまえての作といえよう。ただし同題の曲がほかにもある。(0) | |||
●マリネーラ / 当時はキンテート・レアルにあったバンドネオンの名手ペドロ・ラウレンス曲、 C・マリン詞のヒット・タンゴ。 | |||
●フロール・デ・ペルディシオン / これも流行していたラウル・ディシアス作のタンゴ。 | |||
そして次の二曲は翌59年1月のブエノス・アイレス録音というから、それまでに地方めぐりもしたのだろう | |||
●トゥジャ / マルコーニ曲、パレシ詞のカンシオーネでファン・カルロス・フェルナンドス作。で原題はトゥア。西詞ホセ・マリア・コントゥルシすぐに彼らはブラジルに渡り最夏のリオで1月8日以降次のような録音をする。 | |||
●ベテ・デ・ミ / アルヘンティーナのオメーロ(詞)、ビルヒニオ(曲)のエスポシート兄弟のタンゴ。 | |||
●エチャメ・ア・ミ・ラ・クルパ / これは機会を見て録音しようと温めていた曲だろう。シナロア州出身の作曲家、俳優、歌いもすれば声帯模写も得意で、スペインやフランス出演映画で日本のスクリーンに登場したこともある、最初に務めた役名フェリスキージャを愛称にしているホセ・アンヘル・エスピノーサ57年作のランチェーラ。ミゲール・アセベス・メヒアが歌ってヒットし、フェルスキージャの名を一躍高めた。 | |||
●ディレ / マルフィル作。 | |||
●エン・エル・ノンブレ・デ・ディオス / 同 | |||
●トード・オ・ナーダ / ポルトガル生れだがブラジルで活動したフェルナンド・セーサル・ペレイラ作トード・オウ・ナーダ。彼はサンバはもとよりさまざまな形の曲を作っている(ドーレーミと題したサンバもある)ので、もともとボレロかも知れない。 | |||
●プリメール・マンダミエント / ブラジルのレネ・ビテンコウルト作、ルーカル詞プリメイロ・マンダメント | |||
●ノベー・マンダミエント / これもビテンコウルト作だが詞はラウル・サンパイオ、もっともいずれにせよヒルの西語詞によっているのだが。58年の作で、前の曲も同年の連作だろう。原題はノーノ・マンダメント。これで十戒の1・9条が出て来たわけだが第5条(キント・マンダミエント)をラファエル・セギが作り、73年にトリオ・ボリンケンが録音している。 | |||
●エル・バガブゥンド / ビクトル・シモン曲、ヒル詞。フェデリコ・バエナーが42年に同名の曲(ただし定冠詞エルはつかない。もっともパンチョスの後年の録音もそうだったが)を作っており、そちらのほうが知名度が高い。そしてシモン・ヒルとクレジットされたケースもある。アルヘンティーナのポピュラー歌手ロサメル・アラージャ(チレ出身)がミュージック・ホール・レコードに録音したし、作者は同国の人か。このレコードは日本でも出たが日本発売盤にはスペインで活躍していたトリオ・シボネイのもあった(フィリプス)。このトリオのメンバーには奇しくもフランシスコ・ヒルがいた。なんとパンチョ・ヒルである。 ●ベルデーロ・アモール / ヒル作 ●セ・メ・バ・ラ・ビーダ / 同。 ●セ・ビーベ・ウナ・ベス / ナバーロ作 |
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以上のほかにブラジルでは記念すべき録音を残した。世の中はとうにLP時代になっていたのだが、完全にLPを意識した録音がなされたのである。あたかもパンチョスのステージをそのまま再現したかのような構成で司会役のナバーロがひとくさりしゃべってから曲に入る。ただし、スタジオ録音なのでアルバム・タイトルも「エン・ビーボ(ライブ)」とはせず「エン・ペルソーナ(イン・パーソン)」と逃げている。それでもブラジル盤は(エン・ペソアウン)ではセリフのあとに拍手までつけ加えた(空々しい)。ここで意義あることは、ナバーロがメンバーの名前を口にしていることである。歌舞伎では役者の襲名にあたって口上の一幕が設けられているが、アルビーノ入団の口上がLP一枚を使って行われらたのである。まさに花道である。 そしてLP一枚というのはクラブなどでのワン・ステージと同じ時分でもある。当時のブエノス・アイレスとリオのパンチョスのステージならかくもありなんと思える曲目でつづられている。 Brasil 37556 → |
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●コンティーゴ / パンチョス・ショウのオープニング・テーマ | |||
●イストリア・デ・ウン・アモール / 先にも記したようにブエノス・アイレスでもタンゴに編曲されて、フランシスコ・カナロ、エクトル・バレーラ、アルフレード・ゴビなどの楽団が録音していた(上記の楽団のレコードは日本で発売された(C))。 | |||
●ペルディーダ / このへんでナバーロの作 | |||
●ドゥルセ・ドゥルセ・ドゥルセ / これもナバーロの作だがリズム感覚の違いでアクセンントをつけた。一般のレコードではなく、ここに加えたのは、前年アビレスをトップに吹込,そのレコードが出まわっていたかだろう。トップがアルビーノに替るとこうなりますよとの御披露目である。通常の録音は61年になされた。 | |||
●クリスト・デル・リオ / ナバーロの作だが、まさしくご当地ソング。 | |||
●ミ・ウルティモ・フラカーソ / やはりヒルのこの曲は欠かせない。各代のトップの録音が、これほど残された曲も珍しい。 | |||
●シエテ・ノータス・デ・アモール / 当時のパンチョス、イチオシの曲。 | |||
●オメナーヘ / メ・ボイ・パル・プエブロではなく、不運な他界をしたブラジル、アルヘンティーナ、メヒコの三大歌手への ナバーロの語りのあと、それぞれのゆかりの歌と断章が歌われているのが辞儀になっていて涙を誘う。 |
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まず彼の場会は病死であったけれども"53年゛12月5日に外地で世を去ったホルヘ・ネグレーテにはメヒコ・リンド“たとえ外地で命終ろうともそれは眠っているだけ、人は私をメヒコへ連れ戻す”。“これは定められた道”とカミネモスの一節を前置きにして52年9月27日サ・パウロからリオに向かう途中の車が衝突して即死したフランシスコ・アルヴェスにはカミネモス“あてども知らず私は歩み続けて生活する”。“ひと夏のツバメ、その翼ははるかな地で燃え尽きた”ゴロンドリーナの一節で語り出される35年6月24日コロンビアのメデジン空港で祖国へ向かう搭乗機が出発に失敗して堕落死したカルロス・ガルデルにはミ・ブエノス・アイレス・ケリード “お前にふたたびまみえる時には苦痛はあるまい、ましてや失念など”。"そして最後にシエリート・リンド(ウアステーコ)のメロデイにナバーロが書いた詞がでてくる、 "ガルデルははるかコロンビアで死に見舞われた。遠いカルフォニアでシエリート・リンド ホルヘ・ネグレーテが。それよりも前にはフランシスコ・アルベスがシエリート・リンド鉤爪にさらわれた。だから私は歌う時神に願うのだ、天国で彼らに御厚意を得られますようにと、アイアイアイ。何故って彼らはその民を歌って暮し、そして死んだのですから゛。 谷川 さんNHK-FM ラテン・タイム放送長期にわたるDJでこのオメナーヘ一曲のみ放送された。上記の語りの部分放送でながれた記憶がありオープン・テープを検索中。後になぜオメナーヘ一曲なのかとお尋ねしたところ Argentina_8.277.LP盤の音質がよくなかったとのこと。 |
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このようなわけでこのLPは一曲ずつ切り離して聞いては意味がないまさしく記念碑的な作唱である。のだが、いっぽうアルヘンティーナ・コロンビアもパンチョス30センチLPの第1号にはしかねたし、おそらくブラジルでも同じだったろう、そしてメヒコ(同じくアメリカの)コロンビアからも無視された。何故ならば、別の観点から見れば、いかにもコマーシャルであり作為的であるから。 | |||
Historia_23 それからブエノス・アイレスに戻ると次の曲目を録音した。 | |||
●イ・ノ・メ・デヘス・コラソン / バンドネオン奏者で自身の楽団をひきいて"タンゴのエース゛とうたわれたエクトル・バレーラの作。彼の名しかクレジットされていないが、詞は別の人によるかも知れない。… | |||
●キエン・ティエネ・トゥ・アモール / レオポルド・ディアス・ベレス作タンゴ。 ●ラ・イエドラ / 59年12月パンチョス初来日直前に… |
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(b)セレクシオネス・カンシオネス刊、この号には発行の日づけはがない(メヒコの雑誌ではありふれたことだ)。他の号から推すと5月か6月に出版されたことになる。このセレクシオネス・カンシオネスは前に出て来たセレクシオネス・ムシカレスとは別の雑誌 | |||
(a)この日付はオルティス・ラモスがメヒコ・コロンビアの記録から引用している。 | |||
(c)ことにゴビ楽団のはシングルだけではなく、「アルゼンチン・タンゴの栄冠」という箱入りLP三枚入りセットにまで入っている。その解説に“42曲中唯一の外国音楽。外国曲がタンゴにとり入れることさえ極めて稀で”十年に一曲あるかないかぐらいですが、この曲のように本来のタンゴを圧倒するほどに流行したというのはまったく空前! | |||
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