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1959年12月、遂にパンチョスは極東日本を訪れることになる。そのパースネルが公表されたのは、来日のひと月ほど前でしかなかった。新メンバーによるレコードYL_148トリオ・ロス・パンチョス・ハイライトが発売されたのは11月だが、解説執筆者に原稿依頼がされたのは当然それ以前、緊急にしても9月末、だからジャケットにはアルビーノのことはまったく触れられていないで”新メンバーによる最新の編成と思われます”とあるだけである。このことについて執筆者には何ひとつ罪はない。そして何故かアビレス期のウン・ミヌート・デ・アモールがまぎれこんでいるのだが、これはメヒコから送られてきたテープ自体のミスだろう。とにかくメヒコで出されたのとは内容が違っていたのだから。 この時点_59年12月_に日本コロンビアがカタログに載せていたレコードは次のとおり。■EPシングル(SPは既にない。そして4曲入りのEPもなくなっていた) ◇LL_16 ベサメ・ムーチョ / パーフィディア ◇LL_35 キエレメ・ムーチョ / あなたを愛す ◇LL_125 愛の遍歴 / フレネシ ◇LL_167 魅惑のワルツ / グラナダ ■ダイアモンド・シリーズ(25センチLP、1000円。このシリーズが始まるとともにそれまでの1300円盤は順次廃盤、しばらく生き残ったのも再プレスされることはなく、この時点ではカタログから完全に姿を消した) ◇ZL_1002 唄うトリオ・ロス・パンチョス=パーフィディアやらロ・ドゥードやら日コロ版ベスト・オブ・パンチョス。 ◇ZL_1017 南の哀愁=次の盤ともどもロドリゲス期中心。 ◇ZL_1027 カリブの夕暮れ=タイトルはオラシオン・カリーベによっている。 ◇ZL_1073 魅惑のロス・パンチョス=La Historia_17,Avilés_2ページに既述 ■30センチLP ◇YL_148 トリオ・ロス・パンチョス・ハイライト=この盤は第二回来日後にSL_1022と番号を変え価格も200円安くなって再発売された。解説はどうなっていたやら。 ◇PL_5058 トリオ・ロス・パンチョスは唄う=かのベスト・セラーズである。ただしジャケットは改新された。これも61年にSL_1021となって再登場、現物を目にしていないのだが、解説がもとのまま(あり得る)なら噴飯ものだ。 ◇PL_5087 恋のムード=La Historia_17,Avilés_2ページに記した米WL_112と同じそして急拠発売されたYL_148のほかにシングル二枚が同時に出された。 ◇LL_213 ヴァイア・コン・ディオス / ユー・ビロング・トゥ・マイ・ハート ◇LL_214 つた / 恋のおきて(★1) NIPPON COLUMBIA LL-214→ My Disco Albino_1 |
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ブルーのチャロ服に身をつつんだパンチョスは12月8日アサ7時20分パン・アメリカン航空機で東京国際空港に降り立った。もちろん成田はまだなく、羽田である(一方パン・アメリカン航空は現存しない)。服は機内で着替えたのである。いかにファーストクラスであっても長時間チャーロ服だったらエコノミークラス症になってしまう。出迎えの人数も非常に多かった。寒さにおどろきながらながらも女優安西郷子らからの花束を受けた彼らは早速一曲歌って見せた。 招聘元はスワン・プロモーションである。パンチョスの名は大きかった。けれどもしょせんは三人、それも第三世界(当時はこんなことばは使わなかった)からの...。ラテン・ブームと呼ばれ始めていた時代ではあったが危惧の声は大きかった。だからスワンはあらゆるコネクションを利して歴史に残るほどのプロモーションを展開した。 森永製菓はメヒコ産のチクレをベースにしたチクレ・(★2)モリナガをキャンペーン中だったが、スワンと協力してそのPRにパンチョスを利用することにした。ロドリゲス時代にプエルト・リコでやったインディア・ビールのPRと同じである。この契約は既にメヒコで出来ていたらしい。だから彼らは空港から森永の本社に直行したという。遠来の客をホテルで旅装もとかせず直行というのは信じがたい気もするがあり得ぬことでもない。いずれにせよ、そこでパンチョスはチクレ・モリナガのコマーシャル・ソングの製作を依頼された。その8日の夜には週刊平凡誌のスタジオで若い女性歌手と同誌の表紙用の写真撮影。その女性歌手とは水谷良重、今の二代目水谷八重子である。後日同誌は正月グラビア用に和服姿の女優岡田茉莉子とも撮影した。美女と羽根を搗くパンチョス...すばらしい絵ではありませぬか。 宿舎は港区の品川(高輪)プリンス・ホテル別館、来日当日午後1時から同所で記者会見、そのあとすぐに世田谷区の東宝撮影所を訪ねた。それまでに彼らが観た日本映画はオンブレ・デ・リキシャ(無法松の一生)だけだったが、その主演者二人のうち三船敏郎は不在だっが高峰秀子には逢えた(★3)。 東京大手町産経ホールでの公演のプロデューサー、舞台デザインの真木小太郎も東宝人であると申しておこう。 首相官邸を訪れて時の首相岸信介にも会い、チャローのソンブレロを贈った。食事はテンプラやスキヤキのご招待で、座敷を経験...。ところでこれらがすべてプロモーション、つまり宣伝のいまでいうヤラセといわないまでも各紙誌に“パンチョスがどこそこへ行きますから取材よろしくと伝えられていて、このところ外タレ(★4)の来日がなかったマスコミ(こんなことばもなかった)に売りこみ、各社ともそれに乗ったのである。そして、パンチョスもよくぞ協力したものだ。これほど文化・生活習慣が異なる国へ来たのは初めてだし、なんとしても成功しなくてはならない使命感もあってのことだろう。あちらこちらへ連れまわされた(★5)。 日本での録音も契約に組み込まれていたから、そうこうするうちにもコロンビアのディレクターがパンチョス側に選曲してもらうために10枚ほどのLPをたずさえて訪れた。さくらさくら、南国土佐を後にして、支那の夜はことさらにヒルの気に入った曲だという。さくらさくらはいかにも日本情緒にあふれた曲(ペレス・プラードがつまらない録音をした)、支那の夜は戦前(昭13)のコロンビアの大ヒット、コロンビアとしては願ったりかなったりだが、コロンビアが良心的にも自社の曲にこだわらなかったことを南国土佐が物語る。たしかに人気曲ではあるが、一番のヒットはキング・レコードのペギー葉山の歌だった。情熱の花、キサス・キサスのしても同じようなもので、コロンビアのヒットではなかった。情熱の花、キサス・キサスにしても同じようなもので、コロンビアのヒットではなかった。 |
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(Johnny Albino_7) 「東京のトリオ・ロス・パンチョス」 キューバで元旦にフィデル・カストロによる革命が成され、次元は違うが新発売のダットサン・ブルーバードが人目にをひいていた東京の中心千代田区大手町にある産経ホールで(★1)午後6時30分、ロス・パンチョス初公演の幕は上がった。前述のように危惧感があったから見砂直照と東京キューバン・ボーイズ、宝とも子、アイ・ジョージトリオ・ロス・チカロス(★2)がゲスト参加したのだが、…(Johnny Albino_7工事中) |
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(★1)シエテ・ノータス・デ・アモールに不可思議な邦題がついてしまったがノータ(ノート)は、ごく簡単なメモから注釈、更には条約の覚書まで広く使われることばだから、文字だけ見せられたこうなるのも決して無理ではない。ノータ=音符(オタマジャクシ)は音楽用語である。 | |||
(★2)まわりくどい言いまわしになってしまったがチクレはスペイン語でチューイング・ガムのこと。もとはマヤ地方に多いチコサポーテという樹の樹脂チクレ(ナウア_アステーカ_語チクトル)に発した。だからチューイング(噛む)ガムのガムのほうだけにあたり、原料に記されているガム・ベースのことである。 | |||
(★3)三船敏郎とは60〜61年の第二回訪日の際1月31日彼のメヒコ映画アニマス・トルハーノ(価値ある男)主演決定発表レセプションで会っている。 | |||
(★4)このことばも当時はなかった。せいぜいジンガイ(外人のサカサことば。サカサことばは芸能界特有のアクセントがある)か。それとても私が聞いたのは60年代になってからであった。 | |||
(★5)69年にアルビーノは自身のトリオをひきつれて来日した。公演日程はびっしりつまっていたが、芸能界では避けるのが常識にニッパチ(二月と八月)のひとつ真夏のせいもあって、どこも無残なガラスキ。彼は何度となく司会役の私に言ったものだ「プロモーションが、なっていない。言われりゃオレたちはなんでもするのに今度のプロダクションは何ひとつ手を打たない。ポスターひとつも町にないじゃないか。パンチョスの時は、すごかった、あっちこっち引っぱり回されたものだった。こんなわけで北海道では二ヶ所ほど宿に着くなり私も含めて町なかを練り歩き、アルビーノがあの人なつっこい顔で「ジョニイ・アルビーノデス。コンヤ シミンカイカン ロクジハン、ユー・カム?」...しかし焼け石に水だった。これは芸人根性以外の何ものでもない。しかも「今夜のホールは?」 La Malagueña / Johnny Albino y su Trio |
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