25 La Historia del Los Panchos Johnny Albino-7
東京のトリオ・ロス・パンチョス  106
キューバでは元旦にフィデル・カストロによる革命が成され、次元は違うが新発売のダットサン・ブルーバードが人目をひいていた東京の中心千代田区大手町ある産経ホール()で午後6時30分、ロス・パンチョス初公演の幕は上がった。前述のように危惧間があったから、見砂直照と東京キューバン・ボーイズ、宝とも子、アイ・ジョージ、トリオ・ロス・チカロス(2)がゲスト参加したのだが、今では消防法で禁止されている立見客も多い盛況だった。岸首相も臨席し、パンチョスはグラナダを彼に捧げて歌った。アンコールのキサス・キサス・キサスで幕が降りると一息つぐでもなく、待機していた車で港区赤坂山王のクラブニュー・ラテン・クォーターで9時からのショウ。当時は欧米流のナイト・クラブがあったものだが、ここはその中でも超一級の店だった。その隣のホテル・ニュージャパンともども現存しない。ホテルがつぶれたのは死者を出した火災が原因だが、ニュー・ラテンクオーターはじめナイトクラブは次第に日本人の好みから遠ざかっていったのである。どこのクラブもその呼びものはショウではなく、ホステスになってしまった。しかしニュー・ラテン・クォーターは広々として豪勢だった。
東京公演()はひとまず12月15日までで、18日の仙台公演から各地を巡るのだが、16日、17日も休みではなくニュー・ラテン・クォーターに出続けた。22日の静岡でチクレ・モリナガが初演されたが当日の主催者は森永製菓、つまり契約を果たしたのである。北は旭川、南(というか)西は福岡まで足を伸ばして年も明け、60年1月20日大阪公演(16~18日の東京とともに再演)を打ちあげて、東京へ帰って来た。
1月24日の昼に彼らは千代田区内幸町のコロンビア・レコードの録音スタジオ()に入った。日曜日だった。まず教会に足を運んでからの直行である。録音成功祈願などというものではなく、クリスチャンとしての日曜日のつとめだった。
録音予定曲は24曲(及び三人それぞれのあいさつことば)だが、この内16曲は日本側の注文曲とコロンビアが持ち込んだレコードからヒルが選んだ曲、そして来日に際して彼らがあらたに作った曲などで、残り6曲はメヒコに帰ってから吹込む予定だったのを前倒しにしたのだった。期間は4ケ日間、一日平均6曲、1曲あたり90分だった。リズム・セクションには東京キューバン・ボーイズの面々が参加しているが、アフターレコーディングではなく、同時である、(1_1)こうして残された曲目はコロンビアSL3031「東京のトリオ・ロス・パンチョス」(以下【C】と略)として三人のメッセージも添えて急遽発売(60年2月新譜。2月15日ごろには店頭にあったから録音からひと月もたっていない)そして10曲が25センチLPで4月新譜ZL1121 「トリオ・ロス・パンチョス東京で唄う」になった。【C】はコロンビアがCBSを経てCBSソニーに販売権が移るとCBSソニーSONX60083「日本のトリオ・ロス・パンチョス」(以下【S】)として再発売されるがメッセージと「支那の夜」がけずられた。
その曲目は
◆キサス・キサス・キサス/キューバのオスバルド・ファレスが47年に発表したボレロで、SP時代にボビイ・カポーが録音している(シーコ)が、アメリカの代表的な歌手ナット・キング・コールがキューバまで出向いて現地の楽団とスペイン語で録音したのが58年2月だった。これを含むLPが“コール、ラテンを歌う”などという安易な題ではなくずばり「コール・エスパニョール」として登場、日本でも発売(キャピトル、東芝)されるとキサス・キサスが爆発的なヒットとなり、(1_2)スペイン語なら本家はこちらとパンチョスにお鉢がまわってきたというわけである。
アルビーノ節のキサスもまことに結構だったが、コールの“デセスペラアドォオゥ、コンテスタンドォオゥという甘ったれたような、およそスペイン語の本来からははずれた発音(1_3)のインパクトは及ばず、それが文化放送の「ユアー・ヒット・パレード」(1_4)で59年度年間9位だったのには太刀打ちできなかった。
◆エンスエーニョ・デ・アモール / コスモポリタン・レディとあだ名されたイタリアのカテリーナ・バレンテのヒット曲で「ユアー・ヒット・パレード」ではキサスの上を行く6位だったパッション・フラワーにヒルが詞をつけた。原曲は「エリーゼのために」の通俗題で親しまれているベートーベンの1810年ごろのピアノ曲。
◆キエン・セラ / パプロ・ベルトラン・ルイス作、この曲については「クアルテート・アビレス」のところで記したが、この曲がどれほど日本で人気があるか、例をひいておこう。JASRACが使用料金を微収した額によるメヒコの曲(SACM会員の作)、72年4月から73年3月のランキングで2位、作者としてもベルト・ラン・ルイス第2位なのである。一方SACMが発表した63年9月から64年8月まで外貨獲得額ランキング(1_5)では第10位、作者は14位だった(この曲の真の作者とされるルイス・デメトリオは17位)。余談にわたるが、このふたつのランキングの第1位曲・作者はご想像どうりである。ちなみにSACMの2位以下は2-クワンド・カリエンタ・エル・スル、(1_6)3-グラナダ、4-マリア・エレーナ、5-ペルフィディア、6-アモール、7-フレネシ、8-サボール・アミ、9-エストレジータ、10-キエン・セラ。
◆ラ・マラゲーニャ / エルピディオ・ラミレスとペドロ・ガリンド作ウアパンゴ。今回の録音は過去に吹込みしていない曲が選ばれたが、それは“コロンビアで”ということである。
◆シエリート・リンド / これも同じ事でコーダ以来の再録音である。ウアパンゴ部分は作者不明だが、アイ・アイ・アイ・アイ…のワルツ部分はメヒコ市南部ソチミルコに近いトウルジュウエルコ生まれのキリーノ・メンドーサ・イ・コルテス(?~1957)の作と殆ど認められている。
ところで、ワルツにせよ ウアパンゴにせよこの歌の詩型はシエリート・リンドという間答辞(はやしことば)を取り去ると典型的な7・5・7・5音節詩ーデ・ラ・シエ・ラ・モ・レ・ナ / ビエ・ネン・バ・ハンド / ウン・パル・デオ・ヒ・トス・ネ・グロス / デ・・コン・トラ・バンドーで、このような形ははるか昔の植民地時代に征服者スペイン人が伝えたものである。しかも今例示したパンチョスも歌っている、代表的なシエリート・リンドに出てくるモレーナ山脈(シエラ)はメヒコのどこにもない。スペインはアンダルシア地方の背骨を成す山なみで、コントラバンド(密輸)の本場?だった。(メリメの「カルメン」を読まれたし)。“密輸の黒い瞳一対がモレーナ山脈から降ってくる”、この詞の原曲は疑いもなくスペインにあるのだ。けれどもモレーナ(小麦肌の女)にひっかけて発想は転換する。“モレーナの愛に偽りはない。グアダルーペの処女(聖母)はモレ-ナだ”。グアダルーペの聖母を祀る聖堂はスペインのカセレス県の同名の町にもあって、そちらのほうが歴史も古いのだが、ここでいうのはメヒコ市内北部テペヤクのグアダルーペ聖堂の聖母である。ローマ法王庁から全世界にただ一体、モレーナを認められた(申すまでもなく聖母は白肌である)テペヤクのマリアはメヒコの保護女伸、モレーナ山脈から歌い始められたシエリート・リンドの舞台はメヒコに一転するのだ。
◆アジャ・エン・エル・ランチョ・グランデ / 1927年に当時の人気歌手だったシルバーノ・ラモスが作りエミリオ・D・ウランガが楽譜にまとめたらしい。36年に同題の映画でティト・ギサルが歌って大当たりした。
◆エストレジータ / メヒコ音楽史に永遠に残される巨匠マヌエル・M・ポンセ(1882~1948)作の小品。民謡に取材した組曲や交響曲など古典畑の人といえるし、このエストレジータはハイフェッツもアンコールにしばしば用いた。パンチョスが過去に歌わなかったのは、彼らにはあまりにも抒情的だからだろうか。
◆南国土佐を後にして / ペギー葉山の歌で当たっていた。例によってヒルがスペイン語の詞をつけている。この曲で面白いのは【C】の盤上にタイトルの横文字に続けてカッコしてスペイン語題よろしくフィエブレ・アフトーサとあることだ。日本側のスタッフがナンゴクトサと略しているのを聞いて、多分いいだしぺはナバーロだろう彼らがおどけてフィエブレアフトサと語呂合わせでいっていたのがまじめに受けとられたのに違いない。フィエブレ アフトーサは口蹄疫といって牛馬のウイルス狌急病である。およそ獣医しか使わないようなこんな病名が口をついて出たのにはわけがある。1947年メヒコを襲った流行病にはニューヨークからのパンチョス病もさることながら、ほぼ全土に蔓延したアフサートがあったのである。それはBSGなどというものではない。家畜全部に及んだのだから鶏卵も喰べられない。牧畜家たちに政府は保証金を支払ったのだが、命令で牛馬を殺す軍隊と農民との間にいさかいが生じ、しばしば流血事をひきおこした。この騒動は外国でも出版されるメヒコ史書に現れることはまずないけれど、一般史からは消えることがない証明である。このようなわけでS】の曲目シートにもフィエブレ・アフトーサの題はいきていたのだが抹消してもらった。したがってこの曲だけスペイン語題がない。
◆さくらさくら / 日本古謡のこの曲にもスペイン語題はついていないが、日本語で歌われるパンチョス流モントゥーノ(2_1)も含め、さくらということばが何度もでてくるのだから当然だろう。モントゥーノのことをいったが、まともに歌ったら一分で終ってしまうだろうこの曲にモントゥーノをつけた眼力は是否や好みは別として、すばらしい。そのせいもあって、このLPの中で最も演奏時分が長い。だが分からないのは“彌生の空は”に対応する箇所の詞だ。【C】の歌詞頁にはlinda flor de sakuraとなっているのだが、どう聴いてもサクラではなく、ソラワと歌っている。だから【S】で私はSol a aguaと作文をした。“太陽から水まできれいなさくら”これならそれに続く“はるかな空にそれ(さくら)を見た”にぴったりつながる。しかし、これはあくまで作文である。ソラワを三月とカン違いした、つまり“三月の美しい花”のつもりだったと考えるのが正解だろう。ちなみに64年に来日したマリア・デ・ルールデスが帰国後にヒルの詞で録音しているのだが、そこではリンダ・フロール・デ・サクラと歌われている。
◆セレナータ・デ・トーキョー / ヒル作。東京に着いて寝つかれぬままに曲想が湧いたとヒルはいう。前述のような過密日程の上にコロンビアが持ち込んだレコードからの選曲、寝つかれぬどころか寝る間もなかっただろう。まことにヒルはタフである。日本のラテン歌手たちはしばらくの間、毎年11月の大東京祭に日比谷公会堂でコンサートを開いていたが、そのオープニング・テーマはこの曲だった。
Srenata de Tokio」出演者全員のコーラスだから司会役の筆者もその一員だった。オープニングに「セレナータ・デ・トーキョー」を用いるアイディアは60年の再来日で既に行なわれていて、どんちょう上がると板つき(舞台上に既にいること)の日本側出演者たちが同曲を合唱し、その背後の幕が開くとパンチョス三人が、という構成だった。この時の第1部は前年の離日からメヒコに戻るまでをつづったもの(後述)だったので、それにあわせたのである。
◆ルンバ・ハポネーサ / ナバーロ作。スキヤキ・パーティに招かれて浮世絵(外人向けの店なら必ず飾ってある。もちろんホテルなどにも)を眺めているうちにひらめいた曲だという。これは本当に楽しい。映画やテレビの時代劇で芸者衆が侍たちを楽しませようと舞っている場面そのままではないか。通常外国人がゲイシャに抱くイメージはセックスと直結だがこれはなんと健康的でおおろかなことか。ところで日本公演で司会を務めた志摩由起夫によれば、ヒルもアルビーノもこの曲が出来た時、つまりこんな曲を作ったナバーロが二人に歌ってみせた時には二人とも乗り気ではなかったそうな。仕方がないのでナバーロは志摩に歌う。実は二人に聞かせよがしなのだがその内に二人も乗ってきた、こんなわけでヒルやアルビーノより先におぼえてしまったと志摩は笑う。
◆支那の夜 竹岡信幸曲、西条八十詞、コロンビアがヒルに選曲してもらうべく持ちこんだ音源の中にどうしてこの曲が含まれていたのか理解に苦しむ。たしかにコロンビア史に残る名曲名演ではあるけれども、渡辺はま子がそれを当てたのは、パンチョスがまだ存在していない1938(昭和13)年であり(同年12月新譜)、しかも60年に渡辺はコロンビアを去っていた。
それはさておき60年の某夜、たまたまその日パンチョスの録音をのぞいていたスリーキャッの小沢桂子から、彼らがシナノヨルをチナノジョルと歌っていたと聞かされた。その帰り道、考えた、彼らのことだからヨルがジョルになるのは当然のなり行きだが、もしかしたらYOをLLOにに転換してノ・ジョル、更に転じてノ・ジョーレス(泣かないで)にしたのではないか…。まさしくそのとおりだった。持ち込み音源からの選出はヒルにまかされ、いわゆるヤラセはなかった(キサス・キサスこそヤラセだろう)。耳にしたとたんにチーナ・ノ・ジョーレスというフレーズが彼の意中に浮かんだに違いない。なおこの曲は版権もからんでS】からはカットされた。ひと昔前の日本のレコード界では作曲家はレコード会社の専属であり、他社の歌手が歌うことができなかったものである。それにこの曲の場合支那ということばもひっかかった。
◆ラ・クカラーチャ~ラ・アデリータ / 革命戦争時代の古謡二曲のメドレー。ラ・クカラーチャはコーダ時代以来だが、あいかわらず他に例のないウアパンゴ・ヴァージョンを加えている。たまたま59年には「大砂塵の女と邦題されてメヒコ映画「ラ・クカラーチャ」が公開された。メヒコ映画界が総力を結集した大作だったが日本ではまるで当たらなかった。メヒコ映画は当たらないというジンスクめいたものがあって、三船敏郎主演の「価値ある男」でさえみごとにコケた。
◆シボネイ / キューバのエルネスト・レコーナ29年作。
以上の曲から日本の曲やセレナータ・デ・トーキョーとルンバ・ハポネーサを脱いた盤が米コロンビアのEXシリーズがスタートした60年12月に「ファボリートス・デ・トード・エル・ムンド」として発売になる。
)産経新聞社の産経会館内。建物は現存するが、設備が老巧化したホールは廃止され再建されることがなかった。産経(産業経済)新聞も日本経済新聞の軍門に降ったが形を変えたサンケイ・スポーツはスポーツ芸能紙の雄として君臨している。産経ホールも良い劇場だったが、老朽化というよりその後続々として出来たホールより決してちいさくはなかったがひと回り小ぶりで、建物の構造上改築のしようがなかった。
2)後にチカノスと改称。とうとう確かめそこなったのだがチカロスの名づけ親吉田秀士は“大きな小僧っ子”たちの意味(誤法である)で命名したと私は信じている。その誤りをパンチョスに指摘され彼らの言うがままチカノスと改めたのだからパンチョスが名づけ親ということになる。だがこのことばも彼らにふさわしいものでは決してなかった。
3)このころはコンサートということばは使われず、劇場などのステージにかけられるものはもっぱら公演と呼ばれていた。
東京赤坂日本コロンビア・スタジオ記事4)コロンビアの録音スタジオは65年2月に赤坂に移転した。いつしか“(美空)ひばり
スタジオ”と通称で呼ばれるようになったこの豪華なスタジオでパンチョスが録音する
機会はなかった。
右は05年7月からひばりスタジオが解体されると伝える新聞記事ー東京新聞05年6月24日号より→

1_1)歌に伴奏をかぶせたり、伴奏だけ先に録音する(今では誰でも知っているカラオケ)などが行われるのは70年になってからである。

1_2)キサスほどではなかったがこのアルバムからヒットしたのがコンスエロ・ベラスケス作のカチートで、東京カチートという曲まで生まれた。東京カチートはフランク永井のヒットだが61年に来日したロス・トロバドーレス・デ・メヒコも録音した。「Tokio Cachito_Los Trovadores de Mexico

1_3)I do とかDo youなどの英語の発音を思えばdesesperado等の語尾の発音が明瞭なドでなくなるのは当然。そのだらしなくも甘ったれたような表出が面白いチャーム・ポイントだった。

1_4)リスナーからの投票で人気準位を決める万民的なもので注目せれていた。ただしややミーハー的でもあった。

1_5)年度も違う、ふたつのランキングを挙げたのはたまたま手元にあったからというだけで、意識したものではない。
1_6)作者のカルロスとマリオのリグアル兄弟はキューバ生まれだが、メヒコに帰化していた。
2-1)キューバ音楽ソンにつきものの、メイン・テーマが終ったあとに展開する部分。一定のフレーズをくり返すコーラス、もしくは合奏を下じきにソロがアドリブで歌う(もしくは楽器独奏)応答形式。
La Historia 26 Jhonny Albino_8   110.
メヒコで録音する予定の6曲をこの際日本でとのぞんだのはパンチョス側だろう。それも日本で発売したいとコロンビアは望んだと思われる。しかし6曲というのはどうにも中途半端な曲数ではある。LP2枚(通常12曲を2枚、つまり24曲)を構成するためにあと4曲“なにかやってよ”になったのではないか…そんな情景を想像したくなる曲が並ぶ。
◆ラ・パロマ / 日本でも古くから知られていた曲だからコロンビアの---
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