|
|||||
このようなわけで60年7月(もしくは6月)メヒコに帰ったパンチョスは録音することもなく、その年の暮れには日本を訪れて62年の正月を日本で過ごすとレコーディングに入った。前回「週刊平凡」の表紙飾った彼らは今度はライバル誌「週刊明星」の表紙に森山加世子と登場する。また60年にはロス・トレス・ディアマンテスも来日した。パンチョスが行ったばかりだからとメヒコでは危ぶむ声が大きかったのだが見事に成功した。 |
|||||
メヒコと日本の国旗をデザインしたソンブレロまで持ちこんで親日感を示した今回のパンチョスは、現在日本で流行している曲目を中心に録音したいと望んだ。コロムビアにとっては願ったりかなったりである。61年1月に録音した曲は早くも2月新譜SL1026「日本のトリオ・ロス・パンチョス」となって世に出た。(2月新譜は1月に出されるのだが、この盤は特例で、店頭に並んだのはひな祭り過ぎだったはず)。 ◆死ぬほど愛して/イタリア映画「刑事」のテーマ曲「シンノ・メ・モーロ」である。ユア・ヒット・パレードでは60年度年間2位になった。イタリア語はスペイン語とよく似ているからやりやすいはず、詞をつけたヒルも楽だったろうと思われるが実はさに非ずなのが面白い。というのはこの曲の印象的な歌いだし“アモーレ、アモーレ・アモーレ・ミオ”をアモール・ミオに置き換えるのは手易いこと、タイトルも「アモール・ミオ」にすればいいと考えてしまいそうだけれども、「アモール・ミオ」は数年前にアルバーロ・カリージョが作ってヒットさせたばかりなのである(何年かのちパンチョスも録音する)。こんなわけでパンチョスもアモーレ・アモーレ…と歌っている。そしてアモーレをアモールに置き換えるのは手易すいと書いたし、こうしてカタカナにするとそれが実証されているかのようだが、本当はアモールでは字足らずなのである。(カタカナだとアモーレのほうが“1”足らず?)まじめな話アモールは2音節(オタマジャクシふたつ )アモーレは3音節(みっっ )、実際にこのフレーズをアモール、アモール、アモール・ミオと歌ってみるとよく分かるはず。 ◆月影のキューバ / 58年の「月影のなぎさ」に続いて「月影のナポリ」が当たり、もう一発と登場したのがこれだった(112_b)。 革命が成功したキューバのヒット曲で、セリア・クルスの歌がシーコ(ビクター)からシングルで出た。原題は「マヒカ・ルーナ」、もとはロシア(当時ソ連)の曲だそうで、なるほどクルス盤ではDP(版権消失)扱いになっていた。パンチョス盤にはF・ウエルチ、M・メルロとあり、そのあとにヒルの名もクレジットされているが、ヒルさんあなたは何をしたの? あとに出てくるコラソン・デ・メロンともども森山加代子のヒット曲だった(ナポリも彼女、そしてザ・ピーナッツ)。 ◆グリーン・フィルズ / アメリカのコーラス、ブラザース・フォー(コロムビア)の59年デビューヒットで、日本では例のユアー・ヒット・パレードの60年第2位。パンチョスも日本で初めて耳にしたのだが、ヒルがことのほか気に入って詞をつけた。ボレロではなく、原調のままなのが珍しい。 ◆コラソン・デ・メロン / キューバンのトリオ、エルマノス(兄弟)・リグアルの一人カルロスの58年作。 ◆ムスターファ / アラブ民謡でフランスやイタリアを経由して日本でもヒットしていた。“サルサ・デ・ポモドーロ(トマト・ソース)みたいに“君が好き”というのはその経由地のなごり、スパゲッティの国イタリアではそのソースには代表的な五種類があって、四種類は肉がベース(日本ではもっぱらミート・ソースだが)あとのひとつがトマト・ソース、ことにトマト・ソースがじょうずに作れることは花嫁の条件である。と料理研究家みたいなことを述べ立てたが、このフレーズがここに出て来たことはヒルが日本でこの曲を知った(もしくは押しつけられた)のではなく、60年の欧州めぐり、あるいはそれ以前に聴いていたことを示すのであろう。 なおこの曲の途中にヒルの呪文のような独唱が入るが「アヒアス・マレロン」というアラブ民謡だそうだ。この年のステージでも「ベイルートの夜」といっしょに歌って(114-d)いたが、曲の内容(意味)は知らないと語って笑わせた。彼が幼い頃に父ボハリルが口ずさんでいたひと節ではないかと察するのだが...。 ◆ヌンカ・エン・ドミンゴ / ちょうどLPの発売と同じころ公開された映画「ネヴァー・オン・サンデー」のテーマ曲。ヒル作の詞には日曜日はまったく出てこないし、スペイン語のタイトルもないのだが、同じころのロス・トレス・ディアマンテス版には“いつも逢ってくれるのにどうして日曜にはダメなのか”と歌われており、ヌンカ・エン・ドミンゴはそれを含むメヒコで出されたレコードのタイトルによっている。なおネヴァーオン・サンデーは59年のアカデミー映画音楽賞を獲得した。 ◆僕は泣いちっち / 浜口庫之助作、59年後半の守屋浩のヒットだった。ここにアルビーノの受難が始まる。彼にはなるべく日本語で歌わせようということで、もっぱら彼の日本語詞ソロがなされるようになったのだ。この時の苦労をアルビーノはのちのちまでボャいていた。“あいつら(ヒルとナバーロ)はいいよなあ。適当にやっていりゃいいんだから。こちとらそうはいかねェ”と、当時も志摩に訴えていた(志摩から聞いた)。レコーディングなら詞を書いたメモを見ていればすむのだが舞台ではそうはいかない。いや、ステージでもメモを使ったっていいのだが、彼の芸人根性がそれを許さなかった。(114_c)もちろんこの曲にスペイン語題はない。 ◆有難や節 / 前曲に続く守屋浩の60年末からのヒット。詳しくは知らないが、こちらはハマクラさんは詞だけで、森一也の採譜という。ペルーの広告にクンバンチャ・ハポネーサ(日本のどんちゃん騒ぎ)という曲名を見たが疑いもなくこの曲だろう。 ◆黄色いさくらんぼ / 浜口庫之助曲、星野哲郎詞、守屋と同じくコロンムビア専属のお色気三重唱スリー・キャッツの59年のヒットで彼女たちもいっしょに歌っている(全曲のどんちゃん騒ぎにも加わっているはずだが、それはまさしく騒ぎであって、歌としての共演ではない)。あとに出てくるハニー・ペアーズともどもパンチョスがほかのアーティストと共演した初めてのケースとして注目してよい。なおヒルがつけた詞の中に“ボクはサクランボに行く” “サクランボの中のキミとボク”という箇所がある。このサクランボはsacrambónの語呂合わせだろう。サクラ・アンボンとは教会の聖説教壇のことである。キミとボク、つまり男女がそこへ行くのはなんのためかは言うまでもない。 ◆ティナフト / ロドリゲス時代 (Historia_13 Julito Rodriguez-3)ページに既述。 ◆トルナ・ソレント / あまりにも有名なイタリア古謡だが、どう見てもこのLPでは異質である。しかしこの曲がはいっているのにはわけがあった。60年の離日以来われわれは多くの国をめぐったとして61年のステージ第1部ではそれらの国の曲を歌い、その中にトルナ・ソレントもあったのである、(114_d)例によってヒルの詞だが原詞もわずかに残されている。 |
|||||
◆セ・ジャーマ・フジヤマ / ナバーロ作で、当時コロムビアが売り出そうとしていた女性ニ重唱ハニ・ペアーズ共演(ステージでも)。第二回来日の目玉商品で、評判もよかった。ナバーロにいわせると「いろいろ曲を作って来たが、これほど稼ぎになった作品はない」。手元にあった資料に例をとるとJASRACが発表した1972年4月〜73年3月のSACM登録曲の使用料微集額準位で、曲セ・ジャーマ・フジヤマ、作者ナバーロともに7位なのである。(115_e)数あるラテン・ナンバーの中でセ・ジャーマ・フジヤマはおよそ日本でしか使用されない曲(早い話この曲のパンチョスのレコードは、メヒコでは出ていない)(115_f)以上もさることながら、コロンビアが目論んだのはほかのラテン・アメリカ名曲集(ベスト・セラーズ)を現メンバー、そしてステレオで作ることだった。 ラジート・デ・ルナやシン・ウン・アモールの名が出なかったのはいかにも日本人らしいが、(115_3g)この企画は大成功だった。 この時の吹込の多くはソニー時代になってもレコードの形を変え何回も利用され、CDやカセットテープとなって通信販売やらスーパーの店頭販売の常連になっている。ベスト・セラーズにはカンシオネス・デル・コラソン(心の歌たち)というスペイン語タイトルがついていたが、それを受けたのだろう「トリオ・ロス・パンチョスの心」と題されたこのLP(YS148モノラルSL_1034)は各面6曲ずつだがA,B面の6曲目以外は再吹込、そしてどの曲も旧来のタイトルを踏襲している...いや一曲だけ例外があった。 |
|||||
◆ある恋の物語 / 遂に遍歴は終ったのである。そしてシャウ・モレーノ期以来の曲が並ぶ。 ◆ベサメ・ムーチョ / パンチョスの日本での一番の人気曲がベサメ・ムーチョであると彼らは59年に日本に着くまで知らなかった。公演では必ず歌って下さいと頼まれて彼らは昔のレコードを持ってきてもらって練習したのである。コロンビアが持ちこんだ音源には自分たち自身の音も含まれていたわけだ。シャウ・モレーノの項にふれたようにベサメ・ムーチョはじめ一連の曲は特注品であり ―日本でも同じことをくり返したのだから皮肉― それ以後は歌っていなかったはずだ。こうして59年の初日にはプログラムももうおしまいという時になって初めて歌われたのだが、あの時の客席の熱気には彼らも驚いたことだろう。けれども自分たちのレコードを聴いて練習したというのは伝説(作り話)めいている。39年12月10日、来日二日目に開かれたラテン・コーター出演お披露目の同店でのレセプションでの一曲目がベサメ・ムーチョだったのだから。なおこの日歌った曲の中にはペルフィディア〜アケジョス・オホス・ベルデス・〜ノーチェ・デ・ロンダのメドレーもあったと申しそえておこう。 ◆あなたを愛す / テ・キエロ・ディヒステ ◆アモール ◆キエレメ・ムーチョ ◆ユー・ビロング・トゥ・マイ・ハート / ソラメンテ・ウナ・ベスをコロムビアは相変わらずこの英名(のカタカナ化)にしていた。この曲だけシャウ・モレーノ期とアレンジが変化した。面白いことにアルビーノ期の後期にパンチョスは英語で歌うLPも録音するのだが、 ラテン・ナンバーからはアグティン・ララ作のこの曲が選ばれた。まさしくユー・ビロング・トゥ・マイ・ハートである。 ◆パーフィディア ◆グリーン・アイズ / これも英名カタカナを踏襲。(116_1h) ◆エル・ブーロ・ソカロン / ナバーロ作のこの曲は第一期アビレス時代以来の再吹込だが、ステージでは常時歌っていたはずで、日本公演でも好評だったから、コロンビアとしては是非欲しかった曲だろう。 ◆エル・バガブンド / これも好評で、コロンビアが白羽の矢をたてたはず。アルビーノになってからの録音があった(ブエノス・アイレス:7参照)のに何故か日本に入ってこなかった。「日本の_」の解説「一昨年アルゼンチンのヒット・パレードの1位を3ヶ月も占める大ヒット」とあるが、これは事実だろう。たまたま入手したブラジルの情報で59年5月5日リオのヒット・パレードで外国音楽の部2位、サンパウロで同4位だった。 ◆ラ・ウルティマ・ノーチェ / 次の曲ともどもまったくの新録音。キューバのボビイ・コジャーソ46年作で、メヒコで最初に歌ったのはペドロ・バルガスではなかったか。 ◆アディオス・マリキータ・リンダ / ミチョアカン州タカンバロ出演のマルコス・A・ヒメネス25年作。楽譜にはチャラペーラと形式名がついている。チャラペーラは地酒の一種チャラペーラを飲みながら歌う歌と解釈されるが、さりとて酔って浮かれて歌う曲ではなく(ましてやこの曲はセンチな失恋歌だ)格式バラない庶民の歌と考えればよいだろう。だから特定の拍子や詩型を持つわけでもない。A・ヒメネスはほかにもチャベーラと形式名をつけた曲を書いている。 |
|||||
(112_a)パトカーに乗ったのか、パトカーに先導されたのかは分からない(どうでもいいことだけれど)。パトカー先導は筆者の知る限りもう一例、64年3月7日のビルヒニア・ロペスとトリオ・インペリオがいる。この時はすごい。来日の飛行機が遅れ、彼らは第1京浜をを日比谷公会堂までつっ走ったのである。その横では秋に開催されるオリンピックに向けて高速道路が工事たけなわであった。 | |||||
(113_b)さらに「月影のマジョルカ」アメリカの曲だが「それは空に書かれている」の題でフランスでもヒットしたので、シャンソンの岸洋子や越路吹雪が歌った。コーちゃんといえば彼女は「日曜はダメよ」のシャンソン版「ピレの子供たち」も歌たった。 | |||||
(114_C)クラシックのリサイタルでは、歌手が譜面台を持ち出し、曲ごとにページをめくったりすることもあるが、あれはポ−ズである。姿かたちも絵になるのだがポピュラーはこうはいかない。66年にタンゴのフロリンド・サソーネ楽団が来日した時、ベテラン歌手のマリオ・ブストスが譜面台を使用、新曲ならいざ知らず、レコーディングもしている曲ばかりだったから大分ひんしゅくを買った。やはり日本でマリアチ・バルガス・デ・テカリトランが日本の曲を演奏するのに曲に断りをいって楽譜を使ったが台上ではなくステージの床の上に置いていた。オタマジャクシが見えるわけもなく、まだ慣れていない曲だということをアピールするための演出だった。 | |||||
(114_d)この時の曲目=ノーチェ・デ・ベイルート 〜 アヒアス・マレロン / ティナフトー / ラ・イエドラ 〜 トルナ・ソレント / マドレ・エスパーナニヤ 〜 グラナダ / エス・メヒコ 〜 ラ・マラゲーニヤ(Sakura sakura〜Madre España、Es Mexico、La Malagueña) | |||||
(115_e)この時の曲の順位は1.ベサメ・ムーチョ、2.キエン・セラ、3.ペルフィディア、4.ソラメンテ・ウナ・ベス、5.クワンド・カリエンタ・エル・ソル、6.エストレジータ、7.その名フジヤマ、8.チビリコ、9.グラナダ、マリア・エレーナ、次点ククルクク・パローマ。コロムビアがCBSソニーそしてソニーになった今、日本でも発売されることはない。コロムビア | |||||
(115_f)コロムビアがCBSソニーそしてソニーになった今、日本でも発売されることはない。コロムビアの専属アーティストが共演しているから他社は出しようがないのである。 | |||||
(115_3g)この吹込みはメヒコでは無視された。しかし刺激にはなったはずで一連のパンチョス・メロデイをステレオで録音することになる。(後述)往年のヒットの再現という発想は同じだが、それぞれに曲が違っているのが面白い。 | |||||
(116_1h)この曲のメヒコでの楽譜出版元(版権所有者)はPHAM、その楽譜にはアケージョス・オーホス・ベルデスの下にカッコしてグリーン・アイズとあり、西語詞の下に英語詞も添えられている。私も多少なりともPHAM刊の譜を所有しているが英語・詞併記なのはこれだけである。 | |||||
28 Johnny Albino_9 バラーダ(ロック・バラード)も歌ったし田植えもしたし 116 これらの録音のあと彼らはフィリピンに向かい、同地でも録音するのだが、以上の曲のほかにもまだ何曲か日本でも吹込していて、これらをまとめたのがSL1058(ステレオYS167)「歌う大使ロス・パンチョス」だった。エンバサドールズ・オブ・ソングと英語のタイトルで61年11月新譜だった。だから61年の契約が正式に幾曲だったのかは判然としない。 ◆クレパブレ / ダキストとセラニーチ作。このコンビはラ・イエドラの作者たちである。パンチョスの日本録音でベースの編曲をした(在日中だった)アルヘンティーナ のチェロ奏者リカルド・フランシアがパンチョスに薦めた曲だという。ラ・イエドラの原曲はロック・バラード、それをパンチョスは... |
|||||
|