28 Johnny Albino 9 バラーダ(ロック・バラード)も歌ったし田植えもしたし 116
28,バラーダ(ロック・バラード)も歌ったし田植えもしたし
これらの録音のあと彼らはフィリピンに向かい、同地でも録音するのだが、以上の曲のほかにもまだ何曲か日本でも吹込していて、これらをまとめたのがSL1058(ステレオYS167)「歌う大使ロス・パンチョス」だった。エンバサドールズ・オブ・ソングと英語のタイトルで61年11月新譜だった。だから61年の契約が正式に幾曲だったのかは判然としない。
◆クレパブレ / ダキストとセラニーチ作。このコンビはラ・イエドラの作者たちである。パンチョスの日本録音でベースの編曲をした(在日中だった)アルヘンティーナ のチェロ奏者リカルド・フランシアがパンチョスに薦めた曲だという。ラ・イエドラの原曲はロック・バラード、それをパンチョスはボレロにしていたのだけれど、こちらはロック・バラードのまま、計らずもパンチョス史初のまともなバラーダとはなった。パンチョスはもともとこの曲を知っていて、前にもバラーダめいたのをやった(グリーン・フィールズ)のだし、もうひとつやってみたらとフランシアにそそのかされたのではないか。60年ごろメヒコに来ていたキューバのロボ・イ・メロンが同地で録音したLPの中にクレパブレが見えるのだが同じ曲かどうかは分からない。
◆ウン・ポコ・マス / 自家製品を除き当時最新の曲だったろう。アルバーロ・カリージョ61年の作品でソロ・ヴォイスがムニスからダニエル・カブレーラに替わったロス・トレス・アセスの初ヒットだった。(117_a)60年の時と同じようにメヒコでの録音予定曲だったようにも思えるがメヒコで出されたのはカリージョ(1921~1969)の死を悼むオムニバス・アルバムであった。
◆ドゥルセ・ドゥルセ・ドゥルセ / 第2期アビレス時代に録音したが日本では出されなかったナバーロの作。
◆ベサメ・フェリス / これもナバーロの作で、ハニーペアーズと共演するが、もともと彼女たちと共演する目的でつくられたのだろう。二人も日本語だけでなくスペイン語でも歌うのだが、なるべく安易にしようとの心使いか、それをパンチョスだけで歌う同じ部分を聴くと、どうも安っぽく聞こえる。
さて、これから先はフィリピーナス、つまりフィリピンでの録音である。フィリピナスという国名は16世紀にスペインの王子 フェリーペ ー スペインの隣国のポルトガル語でフィリーポ、英語でフィリップーに因むものであり、現在の公用語は英語だが固有のタガログ語やスペイン語も広く使われている。
◆ミ・アモール / ヒル作。アバネラで始まりボレロになる。ピアノが加わっている。
◆エン・エル・フォンド・デル・マール / これもヒル作でアバネラからボレロになり、前曲ともども古風な雰囲気、以上二曲を聴く限り60年のラ・パロマこのかたヒルは懐古派になったのかと思ってしまうのだが...
◆ノ・メ・オフェンダス / フィリピンの歌手であろうルーベン・タガロイが途中タカログ語でまるまる歌うのだが、アルビーノが歌ったあとでは勝負にならず気の毒だった。レーベルではトライディシオナル(伝統曲、つまり古くからの作者不明曲)となっているのだが、どこかで聞いたタイトルとお気づきのはず。そう、アビレス第一期に録音した曲なのだ。そこではヒルの作になっていた。ここでこんなことに気がつく。ヒルの作がフイリピンに伝わり情報不足からとらトラディシオナル扱いになってしまったか、あるいは何かの機会に耳にしたフィリピン古謡をヒルが手なおししてスペイン語詞をつけて自作としたか。もしも後者だとすると「ミ・アモール」「エン・エル・フォンド・デル・マール」のヒル作というのも怪しくなってくる。その古風さが気になるのだ。ましてミ・アモールなどという平凡なタイトルにおいておや。もとへ話を戻して「ノ・メ・オフェンダス」のメロディは、作りやすい構造ともいえるだろう。アルビーノがパンチョス入りする前にソロで録音したS・ラーモスと I・レージェス作「エントレ・リーサス・イ・コーパス」、アビレス2期のブラジルの曲「コムニオン」、これらを続けて聴くと頭がこんがらかってくる。
◆プエルト・フィノ / さてこのボレロも分からない。フィノ港という固有名詞なのか“きれいな港”というだけなのか(固有名詞であっても意味は同じ)。作者チォソーブスカリオーネの名はイタリア系だからイタリアの地名かとも思うが、さりとて彼がイタリア人という確証もない。例によってヒルの詞 
                                                       (作成者お気に入りの一曲特に中ほどのレキントが良いPuerto Fino)
◆プランタンタール・アロス / 原題をパグタタニン・ング・パライ(Pagtatanim ng palay)というフィリピンに古くから伝わる労働歌で、田へ行く途中にも田植中もギター伴奏(奏者は手を土にいれることなし)で皆で歌う。ヒルの詞によって明るく歌われているが元歌は“働けど働けど我が暮らし...”ほどではないが畑仕事のつらさが歌われている。
ウォレイ・アンゲイ / これもフィリピン古謡だがこちらは展型的な恋の歌で、ヒルの詞も殆ど原意に近いのではないか。
◆マニラ・マニラ / フィリピンの首都に寄せたナバーロのご当地よいしょソング。オルティス・ラモスは5月18日の録音だとしており、だとすると他の曲もこのあたりのレコーディングということになるのだが、これもご当地よいしょソングの次曲も含め他曲には一言もない。オルティス・ラモスはナバーロやヒルと親交があったのでナバーロから直接聞いたのかも知れない。
◆フィリピーナス / 替わってヒル作。最大級の賛辞でつづられている。
以上フィリピンでの録音は8曲、25センチLPならちょうどよいのだが、フィリピンでは
◆シエテ・ノータス・デ・アモールも録音しているのだから同地でのレコードの出されようがどのようであったのかまったく分からない。だがこのシエテ・ノータス・デ・アモールがくせものである。一方のチャンネルにパンチョスもう一方にリズムという稚拙なものなのだ。この曲は日本では59年来日直前に出たばかり、しかもシングルもあったのだからレコーディングにノミネートされるわけもなかった。しかしフィリピンでは情勢が違う。この曲が録音されたのであればほかの曲、例えばシエリート・リンドなども吹込したのではと
私は考えている。もうひとついうとこの「恋のおきて」は日本でも発売されたのだ。ZS_1020「トリオ・ロス・パンチョス・ベスト・テン(118-b)」という、タイトルから想像もつくように人気曲ごったまぜ盤にひっそりと。レコードの性質上、マニアを自認する向きのコレクションにはないはずだ。だからといって目の色を変えるほどでもないが…。
ところでフィリピンでのレコーディングが5月であるなら、日本を離れたのち月日が空いているようだ。この間にフォルモーサ(台湾)やホンコンを訪れたりしなかったろうか。メヒコの資料にはパンチョスの訪問国のひとつに年代は記されていないが中国もあげられている。そして台湾の電塔唱片(タワー・レコード)からベサメ・ムーチョなど日本録音の立体動向身歴声(ステレオサウンドボーカル)レコードが出ている。発売年は不明だが中村とうようの厚意で入手したのは70年前後だったと記憶する。この項のしめくくりにそのレコード(TW1083)に記された文字を記しておこう。いくつかは訳文であるが、他は日本でいう“当て字”、そして多くは今の日本で使われなくなった旧態字で記されていたが、ここでは現行字にした。判読を楽しまれたい。
                              羅斯潘丘斯三重唱之拉丁暢銷曲
                             立体動向身歴声    西洋歌
(以下は曲名、もちろんアルファベットつづり併記)
基妙斯 / 別沙美姆却 / 請更愛我 / 是誰 / 不誠実 / 埃斯到勒麗達 / 恋愛之故事 / 愛你(これは絶対にわかるまいのでバラしちゃうとテ・キエロ・ディヒステ。このあとソラメンテ・ウナ・ベスには手ねかりか漢字なし。唯度丈?) / 美麗之蒼天 / 格蘭徳利那 / 瑪拉格尼亜 (これも分かるまい。ファルセータの入る曲、そして定冠詞だ脱落している、といえば…)/ 恋愛之故事 / 愛称 / 美麗之蒼天 / 茜波尼 / 格蘭徳利那 / 鳩子
中国電塔片TWL-1083_a 中国電塔唱片TWL-1073_b


117_a)69年にアセスが来日した時もリクエストが多かったのに「長年歌ってないので今はレパートリーありません」と一蹴されたのには驚いた。Los Tres Ases 
来日時テレビ音源。オープン・テープがかなりよたっておりますのでその一部分
                       (Historia de un Amor) 共演 園 マリ さん。
69_Los Tres Ases en Japon
(118_b)このレコード(25センチ)は61年12月新譜だから、かなり早かったわけだ。のちに水増しされて30センチYS,316になった。
29 Johnny Albino_10 Requinto Guitarra 
1952年パンチョス初来日で、私たちはレキントという楽器を始めて知った。レキントそのものについては既にふれたが、ここで日本のでの情況を書きとめておきたい。パンチョスやディアマンテスのギターのサウンドはどのようにして生まれるのか、それはトリオに憑かれた者たちの最大のナゾであった・・・・
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