9 Raúl" Shaw" Moreno
旅はパナマから始まった。
グアテマラ、二度目のキューバ、プエルトリコ、ドミニカ、ベネスエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、どこでも大成功だった。一見したところ三人のチームワークよくとれているようだったが実情はそうではなかった。
内紛の事情についてはつまびらかにされていない。そもそもパンチョスについてものを書こうとする人は多かれ少なかれパンチョス・マニアなのだから彼らの汚点を探ろうなどとは思わないし、仮に探索しても推測の域を出られないのだから無意味とあきらめてしまうしかないのだ。結局は性格の不一致が表面化したとするのが無難なのだろう。ヒルとアビレスの性格はまったく違っていたとしばしばいわれている。
ヒルはつっ走るところがあって、それにブレーキをかけるのもオレの役とはナバーロの言である。リーダーは誰かということもあろう。ナバーロはパンチョスのリーダーはヒルだと公言している。
契約を取るのはヒルであり、この面で彼は優れたビジネスマンだった。ステージの組み立てはナバーロの役、あとの一人は彼らについてくればよいのだがやはり不満も出てくるのではないか。もっとも現実的ことに目を移すと、出演料はどうか。彼らの場合収入が10とすると必要経費 1を引いて残りを3・3・3の平等に分けたというのだが本当だろうか。加えて長い外地暮らしによるストレス、長い巡業からメヒコに帰ってきたら、愛想をつかし女房に逃げられていたなどという基トリオの話を聞いたこともある。
もうひとつ、アビレスの健康上のこともあっあたのかもしれないが51年、ペルーで不和は爆発した。
それでもアビレスはこのあとボリビア、チレまで同行するつもりだった。いや、次に述べる新人が慣れるまで同行したのが本当らしい。つまり後任者が見つかるまで、同行することにしたのである。
アビレスは第二期でも旅先でパンチョスを去るのだが、その時とは事情が違っていた。いくら大喧嘩をしたにもせよ自分もいっしょに築いてきたパンチョスをみすてるのはしのび難かったのだろう。とにかく彼はボリビアまで同行した。
だが後任者は意外に早くペルーで見つかった。ラウル・ガルシーアという音楽の道を志望している青年である。声の質もアビレスに似ているところがあったし当人も乗り気だったので早速練習にかかり、まだ学生であった彼のために舞台用のタキシードも用意した。
ところが明日は次の予定地ボリビアに出発という時になって計画は泡と消えた。パンチョス入りを始めて知らされた彼の母親の猛反対にあったのである。
ナバーロは学業をすててカポラーレスに参加したのだがこのペルーの青年は母の意見に従った(それにあの時にナバーロの母は既に亡かった)。このようなわけでガルシアはパンチョス史には残らなかったし、その後の消息もわからない。
こうしてパンチョスは難破状態でボリビアの事実上の首都ラ・パスに入る。
ラ・パスでの棊日、(僕の作った曲を聞いてもらえませんか) と一人の男が彼らを訪ねて来た。自身歌手でもあるという彼の曲の出来栄えよりも、彼らはその声に興味を抱いた。この男なら使えるとヒルは思った。自分の声に合わないのではとナバーロは感じたのだが、今やトップボイス探しは急務である。その上に、パンチョスに入らないかと誘ってみると彼は快諾した。ラウル・シャウ・ボウティエール、パンチョス二代目のトップ・ボイスの誕生である。
シャウ・ボウティールの家系については分からない。シャウ(ショウ)はアングロ・サクソン系のようだし、ボウティエール(ボウチェ)はラテン系でもフランスっぽい。だからであろう、彼のパンチョス入りに際しナバーロは自身の姓名をとってラウル・シャウ・モレーノと名乗らせた。彼は終生その名を通し続けた。だから以降もシャウ・モレーノと通し続けた。だから以降もシャウ・モレーノとつづろう。そしてシャウは日本ではショウと表記されるがバーナード・ショウの例をひくまでもなく英語圏ではショウだがラテン語圏ではシャウである。(余談になるが似たつづりのSHOW(ショウ)はラテン語圏ではチョウと発音する人が多い)。そして人の性を略す時は通常母方の性を略すのだが、彼の場合は芸名として加えられたのだから省略すべきではないだろう。
ラウルは1921(もしくは23)年11月30日オルーロ県の同名の主都で生まれた。
隣の国チレの首都サンティアゴで、同地で有名なクラーラ・オジェーラに師事して音楽を学ぶ。1940年にトリオ・アルティプラーニコス(高原の男達)を、その後に弟のアレクス・シャウ、ルーチョ・オテーロスとトリオ・ロス・インディオスを結成したが、そのいずれもフォルクローレ系のトリオだったと思われる。
シャウ・モレーノのパンチョス在団期間は9ヶ月ほどでしかなかったのだが、急ごしらえにしてはその録音量は必ずしも少なくはないし、その内容は注目に価する。明らかに彼が持ち込んだ曲のほかにはこれも口ずさんだいたであろういわゆるラテン・スタンダードが並ぶ。後者を私は米コロンビアからの特別注文と解釈とする。アビレスだったら、何を今さらとつっぱねただろうし、メヒコで録音しようとしてもいい顔はされなかっただろう。
メヒコ・コロンビアが欲しいのはそんな一時代前のではなくニューファションなのだ。
ところで、ラテン・スタンダードとは何か。誰がそんなものを制定したのか。その発生の地はアメリカである。
アメリカ人がラテン音楽に耳を向けたのは1940年だった。それ以前にもラテン音楽は存在していたのだが、それは今までに見てき来たようにスパニッシュ対象のものであって、アメリカ人は耳をかそうとしなかった。
30年にルンバが流行したがおネツがさめると消えてしまう。アメリカ人向けに料理したハビエル・クーガー楽団などごく少数が気を吐いていた。37年の「メトロノーム」誌が行った楽団人気投票で同楽団は54位である。
40年に、日本のJASRACにあたるASSAPが、コール・ポーターの主唱のもとラジオが作者に正当な版権料を支払っていないことに対してストライキを起こす。放送に流される大部分の曲の作者はASCAPに所属していたからそれらの曲が使えないとなると非会員の作品によるしかなく、ラジオの音楽はその(かみ)の人フォスターの超ナツメロ(もしくは唱歌)か、ラテン・ナンバーばかり、こうしてアメリカ人は好むと好まざるにかかわりなくラテン音楽を聞くことになった。だがそこはアメリカ人で、聞き慣れないスパニッシュの題名は英語にしてしまう。このことはずっと以前からの慣習で、ザ・ピーナッツ・ベンダーがエル・マニセーロという曲だなどと誰が考えよう(ただしこのことは非難できない。日本でも昨今では外国語のカタカナ化が多くなったが、昔は訳名がついていたものである)。ラテン・スタンダードなるものの大部分はこの時代に制定されエスニック効果を狙ったもの、もしくはスパニッシュで通用するもの意外は英語題と詞がついている。アマポーラ(24年の曲だが40年のこの騒動中に全米で聞かれた)のように訳しようのない人名はそのままかというとレクオーナのマリア・ラ・オはマリア・マイ・オウンに、地名のバモス・ア・デパ(テパティトラン)はア・ガイ・ランチェーロに化けている。
ではラテン・スタンダードには、どのような曲があっただろうか。・・・(10)工事中
     Raul Shaw Moreno  Raul Shaw Moreno
第2期 Trio Los Panchos Primera Voz Raúl ”Shaw”Moreno  1951年11月 ~2年9月
戻る