30 Johnny Albino 11 メヒコ録音 124

30 Johnny Albino_10 メヒコ録音 124
1961年に離日してからのパンチョスはフィリピンに行ったことまで記したが、そのあと分からない。メヒコに戻ったはずである。オルティス・ラモスは次に述べる録音は61年4月だとしているが、それだと日本→メヒコ→フィリピンになり、そんなややこしいことをするだろうかと疑問になる。もっともそれはやはり彼のいう“5月18日マニラ録音”を下敷きにしてのことであって、それが2月か3月だったとすれば日本からフィリピンを経由してメヒコへ帰ったことになり、どうということもない(どうということもないことを真面目に考えている愚かさよ...)。それにしても、なんと長い間メヒコで録音しなかったことだろうロックだ、サーフィンだ、トゥイストだ、ヤングたち憑かれている昨今、パンチョスは原点に戻った録音こそふさわしいのではないか、それもメヒコ・コロンビア録音としては初のパンチョス・ステレオ...こうして2枚のLPが誕生する。その一枚が、先に4月録音と書いたLPで、メヒコ市にボレロをもたらしたユカタン人グティ・カルデナスの作品集、一人の作曲家特集ということではロドリゲス時代のアグステイン・ララ曲集に続くものとなった。4月5日がグティの30周年の命日にあたっており、4月録音というのは信ぴょう性がある。なお各曲についてはカルデナスの項に記したのでここでは省略する。

◆カミナンテ・デル・マジャブ
◆ペレグリーノ・デ・アモル / もとの形(クラーベ)のまま。この曲だけでなく本集でのパンチョスはあるがままを大切にしてお   り、強引 にボレロにするようなことはしていない。ボレロで歌っているのはもともとボレロだったからで、彼らの脚色ではな  い。クラーベにしてもそうだが、キューバ音楽がメヒコ風に開花し始めた時の姿であって、プエルト・リコっ子のアルビーノは かなり油をしぼられたことだろう。意地の悪い話だが、そんなことを想いながら聴くのも一興。
◆ゴロンドリーナ・ビアヘーラ
◆キシエーラ
◆ヌンカ
◆ラジート・デ・ソル
◆オーホス・トリステス
◆パラ・オルビーダルテ・ア・ティ
◆フロール
 以上は全部カルデナスの作品(詞はそれぞれ他者による(_125_a))だが、その作品だけでLPを構成できなかったわけではないけれど、ほかの人の作品から次の三曲が加えられている。
◆グラニート・デ・サル / キンテート・メリダをひきいてユカタンの音楽を国外にも拡めたペペ・ドミンゲス(フルネームはホセ・デ・カルメン・ドミンゲス・イ・サルディーバル。99か00~50)曲、C・ドゥアルテ・モレーノ詞。
◆マニャニータ / ペペ・ドミンゲス作。ドミンゲス・カルデナス、そしてリカルド・パルメリンをもってカンシオン・ユカテーカの三巨匠としてよいが、ここにパルメリンの傑作  ― ペレグリーナ・ラス・ゴロンドリーナス(・ユカテーカス)などなど ―  を持ち込むとアルバムの趣旨が分からなくなってしまう。
◆プレセンティミエント / 24年エミリオ・パチェーコ作、小説家でもあるスペイン人ペドロ・マータ詞。ファン・S・ガリードはメヒコ市で最初にヒットしたボレロではないかとしているが、そうであれば延々パンチョスにつながるボレロの曙であり、そのための選曲ではなかったか。
 
  さてもう一枚DSC-1066「ロス・マス・グランデス・エクシトス(至上のヒット集)」が、すごい。
◆ヌエストロ・アモル                   ◆シン・ティ
◆コンティーゴ                       ◆ノ・メ・キエラス・タント
◆カミネモス                        ◆ウン・シグロ・デ・アウセンシア
◆ラジート・デ・ルナ                   ◆アモールシート・コラソン
◆ジャ・エス・ムイ・タルデ                ◆シン・ウン・アモール
◆ペルディーダ                      ◆フロール・デ・アサーレア
 いうまでもなく、パンチョス・メロデイのオン・パレードである。この企画は日本録音の「パンチョスの心」に触発されたものと私は考える。それが「ベスト・セラーズ」の現メンバーによる再現であるなら、こちらはパンチョス・メロデイをというわけだ。もっともこれら常日頃歌っている曲目だから、再現ではないのだけれど...。とにかくこの二枚で当代パンチョスのレパートリーが明らかになる。もっともカルデナス作品集は完全にレコーディングだけが目的で、ヒットさせようなどとは眼中になかったはずだからナマで聴いた記憶があるのはラジート・デル・ソルだけでしかない。
レコード番号をあとまわしにしたのにはわけがある。「グティ・カルデナス ロス・パンチョス」がステレオDCS-1065、モノラルDCA-186「ロス・マス・グランデス・エクシトス」がステレオDCS-1066モノラルは...ない。同時発売かせいぜい月遅れだろう後者はステレオだけという、当時としてはかなり思い切ったことをやったのだ(-126_b)。その替りかどうか少しあとにアビレス時代(1・2期とも)の落ち穂ひろい的なDCA-190「レクエルドス・デ・ティ」が出される。
 だがDCS-1066の売れ行きは芳しいものではなかった。というよりもメヒコでパンチョスといえばアビレス1期なのである。クラシックとポピュラー両面の硬派の旬刊誌「アウディオムシカ(-126_c)」誌67年5月上旬号に公表されたコロンビアのレコード売れ行きランキング(期間は明記されていないが3月中か)で、LPの部で「ゴーメ い パンチョス」が4位、「エポカ・デ・オーロ」第1集が6位なのである。SPの部で「セローソ」が2位なのだし、今のパンチョスもチャンと当たっているのだが、同じ曲ならアビレスなのだ。だから「エポカ・デ・オーロ」は71年のカタログにも記載されているのに「ロス・マス・―」は消えてしまったし、アメリカでも出されなかった(日本では栄光の―としてだされた)。
 62年の春、パンチョスはまたまたブエノス・アイレス(現地では秋)を訪れる。ここで彼らはカルデナス曲集、パンチョス・ヒット曲集に続いて画期的なアルバムを録音する。タンゴのボレロ化だタンゴのボレロ化なら58,9年にもやっている。だがその時は「ビーダ・ミア」を除き当時の新曲だったのに対し、今回は昔から知られたタンゴのエヴァーグリーンなのだ。バックにはタンゴの宿命の楽器バンドネオンやバイオリンの泣き節も入る(-126_d)。ここではあとで記す2曲を除きその日本盤SL-1101の曲順で記すのが好都合だろう。メヒコ版DCA-235(ステレオ出されず)アルヘンティーナ 版8335(メヒコ版と同順)とは配列がちがう。
◆アディオス・ムチャーチョス / 28年フリオ・セサル・サンデルス曲、セサル・フェリーペ・ベダーニ詞。パンチョスは62年の来日公演でも歌ったが、ブエノス・アイレスのタンギスタたちは不吉な曲だとしていい顔をしない。そのくせレコードは多いのだ が...。不吉の理由を述べ立てると一論文になってしまうからやめておこう。
◆カミニート / ファン・デ・ディオス・フィリベルト作、コリア・ペニャローサ詞。26年の古い曲で、タンゴという範ちゅうを越えて ブエノス・アイレス全市民の歌。
◆ア・メディア・ルス / 25年にエドガルド・ドナート曲、カルロス・セサル・レンシ曲。
◆エル・チョクロ / 05年にアンヘル・ビジョルドが作曲した時に歌詞はついていなかったが、後年エンリーケ・サントス・ディス セポロが“タンゴ”エル・チョクロ賛歌とでもいうべき詞を書いた。“ふざけた、つき合いのいいこのタンゴ(エル・チョクロ)といっしょに、タンゴは世界を目ざし”うんぬんと始まるこの曲をボレロで歌うのが土台無理な話、それにチョクロはアルヘンティーナ 周辺ではトウモロコシ(と、その煮込み料理)をいみするが、メヒコでは通用しない。
◆エル・ディア・ケ・メ・キエラス / 次の曲ともパンチョス再吹込。
◆クエスタ・アバーホ
◆ボルベール / カルロス・ガルデル曲、アルフレード・レペラ詞。
◆ラ・コーパ・デル・オルビード / 21年エンリーケ・デルフィーナ曲、アルベルト・バカレーサ詞。
◆マノ・ア・マノ / 20年カルロス・ガルデル曲(実は当時の彼のギター奏者ホセ・ラサーノが作ったらしい)、エステバン・セレドーニオ・フローレス詞 / とにかくタンゴの詞は長いのだがその代表。しかもガルデルが余りにもといえる決定版をだしてしまったのでヒルも前間奏ともどもそれを踏襲するしかなかった。アルビーノはご苦労さま。
◆カジェシータ・デ・ミバリオ / P・マローニ、A,N,ラポルテ、J,ガスパローニ作。
◆ローカ / マヌエル・ホベス曲、アントニオ・ビエルゴル詞。
◆シカトリーセス / アドルフォ・アビレス曲、エンリーケ・マローニ詞。
以上はメヒコDCA-235の曲目なのだが(アルヘンティーナ でも同一内容)ここで不思議なことがおきる。このLPは62年9月に日本ではSL-1101として発売されるのだが、そこでは次の2曲が増えているのだ。
◆ロス・エーヘス・デ・ミ・カレータ / アタウアルパ・ユパンキ作、ロミルド・リーソ詞ミロンガ・パンペアーナ。レコードでは実はB面トップにおかれていた。
藤沢 嵐子/寺谷 蓉子ーLos_ejes_de_mi_carreta
◆ロス・セセンタ・グラナデーロス / イラリオ・クアドロスとカルドーラ作クエーカ・クジャーナで巻末。
いずれもパンパ(草原)が舞台のフォルクローレ(民謡)だから他曲とのバランス上メヒコやアルヘンティーナ ではカットされた(シングルでだされた?どう転んでもあり得ない)のは分かるとしても数ヶ月のちにリリースされたそのステレオ版YS-278でも削られているのだ。だからモノラル版は14曲、ステレオ版は12曲である。どうしてこのような不自然なことが起きたのか。答えはそんなに難しいことではない。その前に、62年という時点での日本はまだモノラルの時代だということを念頭に入れておかねばならない。ステレオ・レコードは専用のプレーヤーを用いるべしとされ、モノラルの、つまり従前からのプレーヤーでかけると盤を傷けると信じられていたのである。「感激のステレオ・タンゴ」などというおどろおどろしいタイトルのレコードもあった。だからステレオの音源がありながらも、まずはモノラルで出して様子を見るようなこともされていた。
 さてパンチョスは62年5月後半にまたまた来日するのだが、タンゴを歌ったアルヘンティーナ録音のテープは、この時にほかならぬ彼ら自身が持参したと考えればつじつまが合う。ちなみに「ニュー・ハイライト」「プレゼント」のテープも彼らが持って来たものだった。こうしてタンゴ集は62年9月新譜として登場する。“我々の最新録音”とのふれこみだったろうし、その中の「アディオス・ムチャーチヨス」Adiós Muchachos Johnny Albino/Liveをステージでも歌うにおいておや、メヒコから送られて来た音源によってカルデナス作品集をはからずもステージ初日に(5月25日)に発売していたもののタンゴ集を出さないわけにはいかないではないか。
持ち込まれたテープはもちろんLPとして編集する以前のものだったはずだ。その巻頭に「アディオス・ムチャーチョス」があったからステージでも歌ったか、あるいは、それだから実は途中にあったのに巻頭に入れ替えたのか。いずれにもせよ、トップから別れの曲という不思議なレコードが出来てしまった。もうひとつというと、62年の来日はこのあとでパンチョスは解散するさよなら公演と銘打たれていた含みもあったろう。特殊な例を除いて30センチLPは12曲入りというのが通例化していた時にこの盤が14曲入りなのも以上のことから解決がつく。
やがてメヒコからステレオでの音源が入り(もっともメヒコ現地ではステレオ版は出されなかった)、それにもとずきコロンビアもステレオを出すのだが、ここにフォルクローレ2曲はめでたく?カットされた。つまりメヒコでの曲数にならったわけだけれどもコロンビアとしては先に出したモノラル曲順が違うのを避けたかったのだろうA7をボルベールをB6に移すことで解決した。皮肉なことに「ボルベール(帰る)」はメヒコ(アルヘンティーナ)版巻頭A1の曲なのだった(-129_e)。
 ではカルデナス曲集と同時期に発売された「ロス・マス・グランデス・エクシトス」がこの時期日本で発売されなかった。(のちにリリースされる)のは何故か。この盤は珍しくステレオだけが出された。当時の日本でのステレオのありようは先に述べたところ、おのずと解答が引き出されよう。
アケ61年から62年前半のパンチョスの録音は以上のようであった。だがこれだけではなかった。このころにはLPが主流になりつつあり、EPがそれをサポートし、それからシングル(便宣上SPとする)が作られる。いわゆるシングル・カットの時代になりつつあったはずである。ところがコロンビアのカタログを追うとまことに不思議なのだ。
◇5001=ラ・コーパ・デル・オルビード / アディオス・ムチャーチョス
◇5024=ポキータ・フェ / メ・エストイ・アコストゥンブランド
◇5119=プレセンティミエント / ヌンカ
◇5164=エル・ペカドール / ス・ファルサ・パシオン これはまだふれていないが62年夏の日本録音
 62年のアルヘンティーナ録音が61年の吹込より先行しているのだ。このことは“最新録音”のニュース性と理解できる。分からないのは5024だ。カルデナス曲集やそれに続くステレオが企画アルバムであるのに対し当座のヒットを狙った単発盤と解釈できる。つまり、このようなレコードもあったのだ。
 だがこの話はこれで終らない。5024は日本でもSPが出されている。62年6月新譜、しかしカップリングが違うのだからややこしい。
◇LL-368=ポキータ・フェ / ルス・イ・ソンブラ(
つまり「ルス・イ・ソンブラ(ルーベン・フェンテス曲、アルベルト・セルバンテス詞。60年刊)」も吹込していたというわけだ。すると三曲録音したことになり、不自然ではないか。「メ・エストイ・アコストゥンブランド」は誤記?...
 そこで気づくのは、コロンビアとパンチョスとの間の契約は“年間 X 曲録音”という形だったろうということである。(事実 アルビーノが退団した時も規定曲数に達していないのでもめている)。X 曲に達していればそれをどのように扱おうと、早い話がオクラにしようと会社側の勝手である。だからこの時も三曲だけでなく、もっと録音したのかも知れないが、ここでもうひとつ推理すると、3曲が正解だろう。メヒコから送られて来たテープからコロンビアが選んだのがLL-368だった。もし4曲あったならコロンビアはためらうことなくEPにしたろう。メヒコ・コロンビアとて同じことで、こうしてこの3曲はLP化されることがなかった。
 ここで話は「ポキータ・フェ」に戻る。「シン・フェ」を副題とする、もしくはそれが正題(アルヘンティーナでは「シン・フェ」で出された。)のボビイ・カポ作のこのボレロをメヒコで当てたのはロス・トレス・レジェスだった(Los Tres Reyes Live in Tokyo_Sin_Fe_(Poquita_Fe)ようだ。ビクター76_1165がそれである。ではそのころの新作か、というとそうではないらしい。62年の内にピアレスからもでているのだ(7440)。▼演者はなんとジョニイ・アルビーノとそのトリオ・サン・ファン!当然これは58年以前の録音と考えねばならない。そこでこんな構造が浮かんでくる。レジェスのそれが評判がいい、そこでピアレスは昔のベルネのカタログにそれがあるのを想い出す。いっぽうアルビーノも「あれは昔オレも歌った曲だぜ」。カルデナス集にしても次のステレオにしてもしどころがなかった、というよりも雁字がらめ状態をかこっていたアルビーノに華を持たせるにはこれだ。こうして「ポキータ・フェ」は八割がた彼のソロ、自由に歌わせている。もうひとつ推理すると、トリオ・サン・ファン版もそうだっのだろう、トリオとはいいながらも実は楽団伴奏で、彼のソロに終始したのかも知れない。以上が「ポキータ・フェ(ちょぴりの信用)」によせるムーチャ・フェ(たっぷり信用)する考察である。
なおピアレスは今いった7440に続いて7443フリオ・ハラミージョの歌でポキータ・フェ(やはりカッコしてシン・フェ)を出しているから、ヒット狙いであるに違いない。
注ー125_a)カルデナスに限らずユカタンでは作曲と作詞は分業であるのが通常。その両方をこなした人にはずっとのちの人だし、カンシオン・ユカテカの作者とはいえないがアルマンド・マンサネーロがいる。
126_b)ステレオはスペイン語ではエステレオでこの場合は、エステレオフォニコ(ステレオフォニック、立体音響)の略。それはさておきその開発期にはこれはどこの国でも同じだがモノラルとステレオとではレコードの記号や番号が違っていたものである。コロンビアはモノラルはDCA_1から始まり(そのころはステレオなどということばはなかったのだけれども)ステレオはDCS_1001が最初だった。だから「ロス・マス・―」は同社のステレオ66集だったわけだが、このシリーズはすぐあとの1068で終ってしまい、以下はDCA_1からの番号に継続、ステレオならば記号をDCSにした。ただし価格はステレオのほうが高かった。
126_c)社主の音楽評論家オット・マイヤ・ゼーラが68年3月19日に他界して廃刊。
126_d)ブエノス・アイレス市立交響楽団のソリスタでもある名バイオリン奏者エンリケ・マリオ・フランチーニは「パンチョスの録音には我々(タンゴ人)もずいぶん協力したよ」と話してくれたが自分が弾いたとは言わなかった。
129_e)ボルベールは“帰る”の意だが、この曲は故郷へ帰る喜びを歌ったおり別れの曲ではない。
)「シン・フェ」を副題とする、もしくはそれが正題(アルヘンティーナでは「シン・フェ」で出されている。)
谷川 越二)実際に聴いたことはないのだがカタログには“ポキータ・フェ(シン・フェ)”と記されている。
Poquita Fe 録音が2種類存在するとA氏の「ロス・パンチョスと私」サイトに書かれています(148)。作成者大好きな曲にて今回作成に当たり盤による録音の違いを試聴、手持ち盤を載せてみました。(Disco_Johnny Albino_Pquita_Fe)日本、スペインは同。アルゼンチン、ペルーは同じ。                                         Poquita Fe Música
31_Johnny Albino_11. 三年後に解散する 130
 1959年12月8日の記者会見で彼らは二・三年後に解散すると公言していた。その理由を、ヒルはコーヒー園を、ナバーロは医院を、アルビーノは電気店を経営しているからそれぞれに忙しいためだと語っていた。そして日本のファンに接するのはこれが最初で最後だろう、とも。
このことをふまえてスワンプロは62年三回目の来日をさよなら公演とぶちあげた。仏の顔も三度、毎年来るのでは新鮮味もうすれるから見事な売り方である。それにスワンにしても、このへんが潮時と本当に考えていたやも知れない。
 もとよりパンチョスは解散するつもりなどみじんもないのないのだが、コロンビアは7月22にの東京産経ホールでの公演をライブ・レコーディング、「さよならコンサート」と銘打って二枚組みアルバムとした(ステレオPSS-1~2、モノラルPMS-9~10)。閉店記念大売出しと宣伝しながら翌日も堂々と営業していたなどという話はいくらでもあるが、たしかにその日が舞台での千穐楽(最終回)であった、さよならの日であったにもせよ、そのあとにはスタジオで……
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