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31_Johnny Albino_11. 三年後に解散する 130 このあと日本の曲(彼らの新曲も含む)とメヒコの曲を集めた二枚のLPを録音、「日本をうたう(YS_229、モノラルSL_1100)」が一足早く、年内に発売になった(63年1月新譜)。なお上記のライブ・レコードは10月新譜である。 |
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◆シエロ・アスール / 悲しみの降る丘、浜口庫之助作、ヒル詞 ◆セゲーラ・デ・アモール / 「雨に咲く花」、池田不二雄作、ヒル詞。次に出てくるLPやらの曲も合わせ日本録音であることを うたったアルヘンティーナのLP(実は「シン・フ ―ポキータ・フェ―」と「ルスイ・ソンブラ」がまぎれこんでいる)に、以上二曲 は日本の曲だと明記されていた。 ◆ノス・バモス・ア・パサール / 海沼実作、ヒル詞「お猿のかごや」 ◆カンシオン・アルピスタ / 「山男の歌」、ナバーロが詞をつけた。 ◆スエーニャ・エン・ヨコハマ / 本居直世の「赤い靴」。“異人さんに連れられて行っちゃった” 赤い靴のお人形の舞台は横浜 だが、ナバーロがつけた詞は恋歌ふうであるけれど横浜を生かしている。実際に彼らは横浜を訪ねているし、ことにアルビ ーノは実現しなかったのだが同地をテーマに曲を作ったりしている。(注131_a) ◆忘れないさ / 山路進一と三浦康昭作。アルビーノが詞を書いているが、彼自身気に入っていたのだろう、日本語の部分も堂に入ったもの、そのせいだろうかスペイン語の題はなくメヒコ盤でもWASURENAISAとつづられていた。他の曲はここに記したスペイン語題である。 ◆ポブレス・ウエルファニートス / 河村光陽作の「うれしい・ひなまつり」なのだが一聴ヒルはクリスマスの両親のないみなし児をイメージしたという。3月3日は女の子のうれしいお祭り日と説明は受けたはずだが実感は湧くはずもない。それに対応するのはクリスマス、そしてうれしいどころか悲しげな ―我々は典雅と聴く― メロディ。ヒルの「マッチ売りの少女」的な発想と詞は讃えられてよい。こうしてこの曲はメヒコではシングルカットされ(5201)アビレス期の「ノーチェ・デ・パス(聖夜)」と組んだし、クリスマス曲アルバムにも登場した。 ◆グラシアス・ア・ディオス / ヒル作。これらの録音は真夏になされたのだが、この曲でも “君の愛はクリスマス・プレゼントに似て” などとつづられている。クリスマスの曲を録音するのはこの時分だし、事実このLPはクリスマス・シーズンに間に合ったし前曲がメヒコでシングル発売されたのも62年のクリスマス期だった。ちなみに隣接した5189、5207もクリスマス・レコードである。 ◆オーラス・ヌエストラス / ヒル作。よほど気に入った曲だったのかパンチョスは63年にメヒコで再録音した。この曲はアルビーノの歌い口を意識して作られたようにも思えるし、バックに入るオルガンが気に入らなかったのか。 ◆ルピータ / ヒル作。59年来日時にヒルは離婚して一人身だった。ルピータは62年恋仲であったか結婚していたか、いずれにせよ彼の三人目の奥方である ◆テキーラ・コン・サケ / ナバーロ作。ナバーロの酒豪ぶりはつとに有名。飲んで乱れずの仁と誰も認めるそうな。 ◆ラ・ゲイシャ / ナバーロ作、 “フジヤマヨリステキナ ラ・ゲイシャ” うんぬんと大島哲のつけた日本語詞がつくチャチャチャだが途中しんみりしたルバート部分もある。 もうひとつのLPはYS_230(モノーラルはSL_1111)「メコシコをうたう」だが、実は更に33回転の17センチ盤(4曲入り)もあった。この二枚は、新旧の曲を対比させる企画だったらしい。だから作者不明の古謡・民謡から湯気の立ちそう新曲までが並ぶことになった。新しい曲はメヒコ人向けであり「メキシコをうたう」は現地では無視されるだろうと思われるのだが「メキシコをうたう」はMéxico Canta(メキシコ ◆アイ・ハリスコ・ノ・テ・ラヘス / 41年エルネスト・コルターサル曲、マヌエル・エスペロン詞。 ◆ラ・バルカ・デ・オーロ / 古謡。別れの時に歌われることが多い。 ◆ラ・ペテネーラ / メヒコ湾岸のウアパンゴ古謡。ペテネーラはスペイン・アンダルシア地方の郷土舞踊で、それがメヒコに伝わり、その感覚によるものならばすべてペテネーラと呼ばれ多くのフラメンコ曲がそうであるように個々の曲題はつかない。現在はウアパンゴの ◆エル・ソルダード・デ・レビータ / ラ・レーバ(微募)の題でも知られるウアパンゴ。PHAM刊の譜にはエクトツ・ゴンサレス(アセスの?ランチェーロスの?)、アルベルト・ローサス、ロベルト・イノホーサの名が並んでいるが作とは書かれていないし、エルピディオ・ラミレスとクレジットされた盤もある。 ◆カナスタス / やはりウアパンゴ古謡、いろいろなことをいって Diamantes Canastas Japan LIve
◆ク・ク・ル・ク・ク・パローマ / 以上の曲に対し、54年にトマス・メンデスが作ったこの曲は歌謡ウアパンゴ。もともとドラマティツクな内容が主眼でファルセーテを聞かせることを目的としていないからアルビーノ中心に構成したのは正解。 ◆ハラーベ・タパティオ / メヒコを代表する郷土舞踊、ハラーベという踊りは各州にあるが、そのグアダラハーラ版である。およそ歌われる曲ではなく、私の手元にも歌入りのはこのパンチョス版しかないが、ここで歌われている部分は詞があっても不自然ではない。それよりも意義あることは通常作者名は書かれていないのにフェリーペ・アロンソ・パトリチェーラの名がクレジットされていることだ。彼は、マリアチなどメヒコ市では誰も知らなかった1919年という昔にこの曲を初めてオーケストラ譜にまとめた当時を代表するアレンジャー(ものすごく速かったそうな)なのである。このパンチョス版は賞められたものでは決してないがパトリチェーラ(愛称である)の名が出てくるあたりメヒコCBSから学識者が録音現場にいたか、日本側が問い合わせての答だったのであろう。失礼ながらヒルやナバーロがパトリチェーラのアレンジについて知っていたとは思えない。エミリオ・デ・トーM.V.デ・カンポ ◆ラス・チアパネーカス / 南東部の森林地帯チアパス州の郷土舞踊で「手拍子うって」の題でフォーク・ダンス・サークルが古くからとり上げてきた。エミリオ・デ・トーレとM.V.デ・カンポの名がクレジットされているが前曲のパトリチェーラと同じように快活な曲を初めてオタマジャクシの形で紹介した人たちなのかも知れない。あるいはこの曲をアメリカのE,B.マークス社が楽譜出版した時のまとめ役か。歌詞のほうはこれまたおよそレコーディングされることがないが古くから知られていた。 ◆ラ・サンドゥンガ / 地理上正確には南東部にあたるがメヒコでは南部といっている オアハーカ州テウアンテペク地峡の民謡だが反政府ゲリラの闘士マクシモ・ラモン・オルティス(1816年6月24日、現テウアンテペク市(135_c)のサン・セバスティアン地区生まれとされる)が作ったと言う伝説がある。戦野で母が重態との報せにラモン・オルティスが生家へ駆けつけてみると、母は息を引きとったばかり、“アイ サンドゥンガ、ママ、お願いだ、つれないことはしないでおくれ!”、彼の悲痛の叫びはメロディになり、それからも口ずさんでいる内、その調べはオアハーカじゅうに拡まった…。 ところでサンドゥンガとは何か。意味は不明だがアフリカ伝来のことばだろうという説がある。たしかにオアハーカ州にはコーヒー畑の労動力として多くのアフリカ人が送り込まれている。一方1850年にメヒコ市のナシオナル劇場で「ラ・サンドゥンガ」というアンダルシアの踊り歌が初演されたという記録があるそうだ。これは今ここで命題にしているのとは別の曲だろうし、スペイン語(魅力、愛嬌の意だろう)。ただしマクシモ・ラモンが、どこかで耳にしたふしが気に入ってくり返し口ずさんでいる内に自分が作った曲のように思い込んでしまったと考えられないでもない。(135_d)いずれにもせよこの曲に彼の名がクレジットされた例をこのパンチョス版も含めてみたことが殆どない(135_e)(つけ加えておくと、このレコードにはどこを間違ってか“チアパスのワルツ”と併記されている)。 横道にそれたが最も有力な説はオアハーカの現(原)住民族サポテーカのことば、 Saaa ― 音楽 ndu ― 深い ngaa ― その の合成語で “その深遠なる調べ” の意であるとする説だ。しかしこれとてもサアア “(充分な)賠償、つぐない” の意とも言うし、全体を “この聖なるよろこびあるいは” “聖なる贖罪”、と訳している例もある。母の死に際に間に合わなかったことは長い不在 ―親不孝― のあがない、こう考えるべきだろう。そんなに酷くしなくたっていいじゃないかと彼は叫ぶ。 だがこの歌が拡まる過程でもともとの意味はうすめられていて “なんの因果だだ― ひどいことをしないでくれ” に転じていたようだ。その現れがここでパンチョスも歌っている、元歌とはまったく関係なく広く流用している詞である。 “きのうパパロアバン川で水浴びをしているところに通りかかった君は一べつさえしてくれなかった。” パパロアパンはテウアンテペク市を流れる川、と思いたくなるが、そうではない。大西洋岸ベラクルス州アルバラードに河口を持つ川で、その源のひとつはオアハーカ州 州都オアハーカ(テウアンテペクからざっと300キロ)周辺の山地にある ―ついでながらアグスティン・ララの生地とされるトラコタルバンはその流域にあるとつけ加えておこう―。 このひとことをもってしても「ラ・サンドゥンガ」がどれほど流布したか、内容が変化したか察しがつく。 マクシモ・ラモン・オルティスはオアハーカ州ハラーパ・デル・バージェ(州都の西20キロ)周辺で急襲され、1855年10月13日射殺された。それから15年過ぎた1870年にテウアンテペクではカーンディド・ヒメーネスによって初の大がかりな楽団が結成されたが「ラ・サンドゥンガ」の初のオーケストレーションを為したのは彼ヒメーネスだといわれている。 ◆ラ・ビルヘン・デ・ラ・マカレーナ / スペインのベルナルディーノ・バウティスタ・モンテルデ作、アビレス時代以来の再録音。このLPの目的がメヒコの音楽パノラマにあることを考えれば選ばれた理由もおのずと理解できる。スペインの曲ではあるけれども、メヒカーノの血を湧かせる闘牛の定番ファンファーレなのだ。まったく同じ主題でアメリカ・ビクターは56年に「ホリデイ・イン・メクシコ」と題したオムニバスLPを作っているが、その巻頭がこの曲だったのを想い出す。しかし、パンチョスと闘牛は、どうやっても結びつかない。なおこの曲は未聴だがアビレス時代に録音したらしい。 ◆エスクラーボ・イ・アーモ / これからはボレロ、それも現代ボレロ。ハリスコ州ホコポテペク出身のホセ・バーカ・フローレス62年作。 ◆イ / ドミニカ出身だがメヒコで生活しSACM会員でもある(つまりメヒコの作曲家の一員)マリオ・デ・ヘスス(姓はバエス)60年作。そしてほかに四曲、これらは補巻の形で62年12月新譜として出されるのだが、第一回来日時の25センチLPを想わせる。 ◆コプラ・ヒターナ / スパニッシュ・ギターとサブ・タイトルされ、M・パリチ、、N・マイン、G・リファマン(それぞれそう読むのだろう)と三人の名がクレジットされているが、別のレコードにはマリオ・モリーナ・モンテス(メヒコの代表的な訳詩者)、リファマン・マインとある。 ◆エル・ローコ / 自身歌手でもあったビクトル・コルデーロが61年に作り、ハビエル・ソリスがヒットさせた。 ◆エル・ペカドール / これはボレロではなくバラーダ(スローロック)である。ルス・トレス・レジェス、ルーチョ・ガティーカ、はてはファン・メンドサーも歌った62年のヒット曲。作者はアレハンドロ・フェンテス・ロスという6歳の少年で、いくらメヒコの子供がマセているといってもこれは疑いもなくパパの作品だ。そのパパとはメヒコ屈指の作・編曲家ルーベン・フェンテス、傾向があまりにも違うので気がひけたのだろう息子の名を使ったのである。70年にマリアチのモダン・ナンバー「ラ・ビキーナ」を発表した時もそうだったが、この時はすぐにバレてしまった(その途中の66年の「エル・デスペルタール」「ゴルダ」は、二人の共作になっている。親馬鹿チャンリン… と人のことはいえない。この私にも無名だが当時小学生だった娘の名を使った作があるから)。こんなわけで「エル・ペカドール」は62年の内にメヒコではシングル・カットされる(5164)。 ◆ス・ファルサ・パシオン / アレハンドロ・ルイス・ガリンド作。これも当時の新曲だろう、今いったばかりのシングルB面におかれている。 |
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(注ー131_a)69年、自身のトリオとアルビーノが来日した時、日本のプロモーター側の契約不行で彼らは録音途中なのに帰国してしまった。その中に「バモス・ア・ヨコハマ」というアルビーノの作があり「横浜は良い所だ」と言っていた。 | |||||||||||||
(133_b)メヒコもステレオ時代、モノラルと同時発売のは番号は同じで記号で区別するようになった。以下はDCS.つまりステレオ記号で統一しよう(もちろんモノラルだけの盤もあり、それらはDCLのままだ) | |||||||||||||
(135_c)正称サント・ドミンゴ・テウアンテペク。テウアンテペクはナウア語 ―通称アステーカ語で “石ゴロゴロ山” とも “猛獣山”とも訳せる。観光案内などに出てくることはまずない、太平洋岸から20キロほど内陸の人口1万人ぐらいの町。 | |||||||||||||
(135_d)或るタンゴ愛好家(私の友人なのだが)が新曲が出来たと得意のピアノで友人に披露したところ「なーんだ “XX” じゃないか」とマニアだからこそ知っているような曲名をずばり言われてガックリきたそうな。彼は他者が見向きもしないような曲を掘り出しては悦に入っている性向があり、「XX」を口ずさんでいる内に自作と錯覚してしまったのだ。 下世話な話はさておいて、1984年ナルシーソ・イエペスが来日(10回目である。パンチョスよ恐れ入ったか)した時、出演したNHK-TVを通じて 「(作者不明とされる)「禁じられた遊び~愛のロマンス」は今まで言わなかったが1934年、私が7歳の時、母への贈りものとして作った曲」 と公言しているのはどうだろう。日本ギター普及協会名誉会長濱田滋郎の見解は、7歳のイエペスはこの曲を誰かがつま弾いているのを耳にして自分も弾いてみたくなり、弾いている内に自作と思い込んでしまった…。 |
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(135_e)“殆ど” というのは学術的なレコードを除くということだ。 | |||||||||||||
32_Johnny Albino_12. 一連の録音 137 このあとにも綿々と一連の録音 ―LP時代とは申せ、まさしく量産― について、私は次のように解釈する。コロンビア~CBSのアーティスト・ディレクターになったつもりで_。 1958年にパンチョスは分裂し、海のもとも山のものとも知れない新しいプエルト・リコ人をトップに迎えいれた。今までもトップはプエルト・リコ人だったのだから無計画なその場しのぎではあるまい。一抹の望み、だがいっぽうでパンチョスはもうおしまいと見る向きも多かった。 だがアルヘンティーナから届けられた音は、不安を吹きとばすのに充分だった。メヒコ・コロンビアは彼らを大歓迎し、自社のスタジオで録音させた。 そればかりでなく、59年12月には未開拓だった市場アジアにも進出し、圧倒的な成功を収めたのである。パンチョスの新しい黄金時代、いや今はメヒコやアメリカ州だけではなく、全世界を範囲とする真の黄金時代、ひとりパンチョスだけではなく、メヒコ音楽の黄金時代は近い。彼らをして…… |
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