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32_Johnny Albino_12. 世界のロス・パンチョス・プロジェクト 137 アルビーノは本物か。パンチョスは彼の特徴ある歌いまわしにオンブしているだけではないか。アビレスのロス・トレス・レジェスは無駄とはいわないまでもなくもがなの語句をばっさり切り取る思い切った、パンチョス時代とはすっかり変わった唱法で挑んできているではないか。ここで一番アルビーノをテストしてみよう。課せられたのがグティ・カルデナスの作品であり、10年来のパンチョス・ナンバーだった。ごまかしのきかないこれらを彼はみごとにクリアーした。ごほうびに「ポキータ・フェ」ではしたいがまま...。 以上は61年の様相だが、62年にはブエノス・アイレスでタンゴ名曲も掌中にした。そして62年、3年連続の日本訪問、エンバハドーレスの夢は今。この時のLP「日本をうたう」は日本側の注文にせよ「メキシコをうたう」プラス4曲はメヒコ側の意図がありありとする。世界シリーズ第1弾地元メヒコ編がその年の内に市場に出る。以降アルヘンティーナ、ブラジル、べネスエラ、ペルー、アメリカの都市から西部の田舎、日本、果てはインテルナシオナル...。 “世界のロス・パンチョス・プロジェクト”第1弾が発売されるかたわら、62年12月には “プエリト・リコ編” の録音が行われた。パンチョスにとって切っても切れない関係のプエルト・リコが選ばれたのは当然のなり行きだった。オルフェオンはとっくにロス・トレス・レジェスによるLP「レクエルドス・ボリンカーノス」を出していた。だがここでいざプエルト・リコの名曲ないしは人気曲を選ぶとなると行きづまってしまう。ボビイ・カポーの作品なら代表的なところは既に吹込済み、ノエル・エストラーダ、ジョニイ・ロドリゲス、マニエル・ヒメネス… フリート・ロドリゲス、エルナンド・アビレスましてやジョニイ・アルビーノでもあるまいし、チャゴ・アルバラーダならそのおいしいところは歌ってしまった。さりとて民謡色の濃厚なカンシオン・ヒバラでもなし。ここはメヒコでも知名度の高い巨匠二人 ―ラファエル・エルナンデスとペドロ・フローレス― の作品にしぼるべし。そうすればアグスチィン・ララ、グティ・カルデナスに続く作曲家シリーズともなるではないか。結局二枚のLPが登場するのだけれど、それらは “エン・プエルト・リコ” とはならず、作者の名を表面にだすことになった。 62年12月の録音はラファエル・エルナンデス(1891~1965)(注_138_b)の作品集である。親交もありかってフリート・ロドリゲスの入団時に世話になったりもしながら、パンチョスは意外と彼の作品を歌っていないでいたのが面白い。こうしてDCS_282が市場にでる・63年10月新譜のES1802(注138_c)もほぼ同じだが、これも63年10月のPSS_50「哀愁のプエルト・リコ」は曲順が大幅に違っていた。 |
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◆ プレシオーサ / プエルト・リコを「 ◆ デスベーロ・デ・アモール / 37年作。 ◆ アオラ・セレーモス・フェリーセス / 新婚夫婦のハッピー・ソングで 「クワトロ・ペルソーナス(四人)」との副題もある。 “幸せになろうね、ここにはキミとボク、パパとママの四人だけ”、 そのあとにバンド・リーダーとしても活躍しプエリト・リコの歌手ティト・ロドリゲスは “そして借金取り” とつけ加えて笑わせた。 ◆ トライシオン / うらぎり ◆ エナモラード・デ・テ・ティ ◆ シレンシオ / ◆ ペルフーメ・デ・ガルデニア / 36年作 ◆ソン・ラス・セイス・デ・マニャーナ ◆ラメント・ボリンカーノ / 一人のヒバリート(ヒバロ ―農夫― の縮小辞)の一日をとうしてプエリト・リコの貧窮を訴えた名作だが、一体いつごろの作品なのかははっきりしない。エルナンデスがニューヨークで店を開いたのは29年(27年とも)、その当時の作品らしいのだが楽譜になったのは33年だという。「ラメント・ボリンカーノ」を創唱したのはクワルテート・ビクトリアで場所はサン・ファン、けれどもエルナンデス妹の名ビクトリアをとってペドロ・オルティス・ダビラをトップにこのこのクアルテートを組んだのは34年だとアンソニア・レコードの解説にあって、32年のメヒコ入り ~ 15年間定住とつつじまが合わない。もっともオルティス・ダビラの創唱はクアルテート・ビクトリアに参加する以前かも知れないし、エルナンデスにしてもメヒコに居すわり続けたわけでもあるまい(「シレンシオ」はコロンビアで作った... ニューヨークへ行ったが気に染まず四日目にはメヒコに帰った... などなど)から、プエルト・リコを訪問、クアルテートを組んでみたと考えられぬでもない。 ◆カンシオン・デル・アルマ / 42年作 ◆カプジート・デ・アレリー ◆ノ・メ・キエラス・タント / 今さら申すまでもないパンチョス・メロディ。しめくくりにもって来たところがニクい。 ◆ミ・グアヒリータ / 「プレシオーサ」とのさし替えでアメリカ版だけに入っている。ところがこの曲はメヒコでは手の届く限りのカタログには見あたらない。だからオクラになっているレコーディングもあるのだということを物語っている。それにしてもこれは大変な選曲ミスだ。グアヒリータはキューバで白人系の農民をさすことばグアヒーロ(女性がグアヒーラ)の縮小形で、プエルト・リコでは使わない。ここではヒバロだ。そのことが示すようにこれはプエルト・リコの、ましてやヒバリートことラファエル・エルナンデスの曲ではない。キューバのフリオ・ブリートのかなり流行した作品で正式なタイトルを「アモール・エン・ミ・ボイーオ」という。グアヒーロの歌をグアヒーラと総称し、まさしく “働けど 働けど我が暮し楽にならず” 労働のつらさを主題にしたものから田園美を歌う詩情にあふれた曲までいろいろある。一人のグアヒーロが畑に出て行く、ふり返ればボイーオ(素朴な家)で白い腕を振っている妻の姿がはるかに... 今いったようにかなり流行した曲だが都会人的発想とこきおろされもした。田畑に生活する女の腕が白いはづがあるか...と Disco_UP Johnny Albino_2 続いてエルナンデスの永遠のライバルだったペドロ・フローレス(1894~1979)の珠王・作にとりかかるのだが、オルチス・ラモスによればその時期は63年1.2.5月ととびとびだった。“永遠のライバル” といったが本当にこの二人は仲が悪かったそうで、会合などでの集団写真はともかく、いわゆるツーショットなどお目にかかったことがない。その集団撮影でも上手と下手、ずっと離れたところにいる。歌い手はじめ多くの人が彼らの仲をとりもとうとし、成功したとも結局果たせずじまいだったともいう。エルナンデスは多岐多作だか、あれはほかの人が作ったのを買い上げて自作にしたのだとフローレスはいっていたとか。真偽はさておき彼らがプエルト・リコの巨匠であることは誰もくちばしををまさめない。 ペドロ・フローレス作品集はDCS286、米版は内容・曲順ともに同じでES1819、(64年になってからでた)、日本盤はPSS-51(注_141_d)けれどもここでも不思議なことがおきる。曲順は同じなのに内容が違う、つまり一曲を差し替えになっているのだ。 エルナンデスがニューヨークで店をかまえる以前からトリオ・ボリンケンというグループをひきいてレコーディングまでしていたのに較べてフローレスがクアルテート・フローレスを結成して演奏活動に入るのは30年末期か40年代に入ってからである。この頃のクアルテート・フローレスは美声のダニエル・サントスを擁してすばらしい録音を残したが、フローレスの作品の多くはこの時代に生まれたと見てよいだろう。サントスが独立するのは第二次世界大戦従軍のため(占領軍兵士として ◆ケ・テ・パーサ ◆ペルドン / ロドリゲス期からの再録音。まさしく合唱を前提にに作られている。 ◆ラ・デスペディーダ / 41年の作と伝えられる。出征兵士の妻や母への別れの歌で、この年の12月参戦した日本なら “なんと ◆アモール・ペルディード / 失恋の恨みつらみを述べたて、“恋は賭けごと、敗けたオレは良きギャンブラーだからきっちり支払う。一介の唄歌いに言えるのはせいぜいこんなこと ”と男の詞だがマリア・ルイサ・ランディンが名唱を残した。 ◆イレシスティブレ / 57年か58年ごろにロス・トレス・アセスが録音をしているし、ダニエル・サントスがレコーディングしたのもおなじころ(もっとも全録音を調べあげたわけではないけれど)のはずだから案外新しい曲なのかも知れない。 ◆マージー / マルガリータというよりマーゴットの愛称、だが曲の中に彼女の名はまったく出てこない。 女性の名がタイトルなのにその人の名が出てこないということでは「マリア・エレナ」と双璧(?) ◆アドベルテンシア / だが日本盤にはこの曲ではなく、フローレス作の ◆テ・ロ・フーロ / が入っていた。もとよりまったく違う曲くである。だからパンチョスは予備のためだろうか12曲以上に録音していたのだ(「テ・ロ・フーロ」はメヒコではオクラ)。それはさておきCBSはこのアルバムののちにとりかかった録音の中の一曲「パ・トード・エル・アーニョ」とのカップリングで「アドベルテンシア」をシングルで発売している(5281)。ところがここでCBSはミスを犯した。次に出すLPにも「アドベルテンシア」を組み入れてしまったのだ。そこで、パンチョスのLPを接極的に出している日本へは予備の「テ・ロ・フーロ」入りのテープを送ったのだろう。こうして「哀愁のプエルト・リコ」は63年11月新譜として登場するのだが「アドベルテンシア」は日本で発売されることがなかった。このいきさつは後にゆずる。 ◆ボラーチョ・ノ・バーレ / アルビーノにとってはトリオ・サン・ファン以来。 ◆オブセシオン / ロドリゲス期の再録音。 ◆バーホ・ウン・パルマール ◆ベンガンサ ◆エル・ウルティモ・アディオス. Embajadores de Canción La Malagueña Live
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(注ー136_a) これらの称号はLPタイトルからの借用で正式のものではないが。これに近い例がある。1954年にヨーロッパで世界民謡際が開催された時、パラグアイ国政府は同国を代表する歌手ルイス・アルベルト・デル・パラーナ、アグステイン・バルボーサ、アルパ奏者ディグノ・ガルシアにトリオを結成させて、外交官に正式任命、派遣したのである。以来(今はどうか知らないが)パラグアイは優れた音楽家が海外へ出る時には外交官待遇にしており、ロス・インディオスのアルフォンソ・ラミレスも、パスポートを拝見したわけではないけれど、私もそうだといっていた。 | |||||||||||||||||
(138ーb) ラファエル・エルナンデスの父はまったく分からず出生届けにも “不明” とある。エルナンデスは母マリアの性。 | |||||||||||||||||
(138ーc) ラブ・ソングス・オブ・ザ・トロピックス/トリオ・ロス・パンチョス・ソング・オブ・ラファエル・エルナンデスといういい加減なタイトルがつけられている。 | |||||||||||||||||
(141ーd)PSSはコロンビア(レーベル名はCBS )が組ものステレオの用いていた記号。だからPSS-50とタイトルは同じ「哀愁のプエルト・リコ」。だがこの二枚は見開きジャヤケットを用いるとか箱入りにするとかではなく、ひとつのビニール袋に入って二枚一組で発売された。それぞれ単独の盤でありながら分売されなかったのである。 | |||||||||||||||||
33_Johnny Albino_13. 「カンタンド・ボレロ」ニューヒットの録音 142 63年2月にフローレス集の録音に一段落つきパンチョスはまたまた南米に向かうう。そこでもレコーディングするのだがそれはあとまわしにして5月~8月の吹込みと思われるものを先に記しておこう、これらはDCS325「カンタンド・ボレロ」と題され、64年1月か2月の新譜として発売される。その日本盤はざっと一年遅れて65年5月新譜YS447「ニュー・ヒット」である。新曲ばかりだから日本版のタイトルの方が的をえているが「カンタンド・ボレロ」を名乗れなかったのにもわけがある。それとアメリカ版、… |
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