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33_Johnny Albino_13. 「カンタンド・ボレロ」ニューヒットの録音 142 |
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◆ アドベルテンシア / 問題のペドロ・フローレスの作品である。フローレス曲集の録音は63年1,2,5月とされるが、この曲の吹込みは5月では なかったろうか。そこで推理してみる。 メヒコCBSの企画をキャッチしたフローレスがプエルト・リコから新作「アドベルテンシア」の楽譜を送って来た。早速パンチョスは録音、そして「テ・ロ・フーロ」とさし替える。だが新曲ばかりの「カンタンド・ボレロ」にも配列する。このようなことはあとに出てくる 「オーラス・ヌエストラス」にもいえる。作品集に対し、一方はヒット狙いの新曲集なのだから重複してもいいということか。だが日本へ音源を送る段になって、重複はまずいと気ずいてCBSはフローレス集には「テ・ロ・フーロ」をさし替えて発送した。 「カンタンド・ボレロ」も日本で出されるとの前提である。それから「カンタンド・ボレロ」のテープ送付にあたり『「XX」は重複するので以前さし替えた曲』とていねいに説明した。ここで解釈の違いが生じる。つまり「XX」は重複しているのだとこうして「アドベルテンシア」は別の曲とさし替えられる、それもよりにもよってバラーダの「エル・ペカドール」と。この曲がメヒコで人気があるとの知らせが入っていたのかも知れないし、もともと日本向けのテープに組み込まれていたと思われなくもない。 とにかく「エル・ペカドール」のシングルは前述のようにとっくに出ていたのだがLPとしては「カンタンド・ボレロ」のすぐ次、同時かひと月遅れなのだ。なんらかの行き違いがあったのだろうがバラーダがあるのでは「カンタンド・ボレロ」は名乗れず、いっぽう「アドベルテンシア」は日本で発売されずじまいだった。 ◆ ディ・ケ・ノ・エス・ベルダー / 63年アルベルト・ドミンゲス(1913~1975)久々の作品。 ◆ ディアリアメンテ / アルバーロ・カリジョ作、出版は翌64年。 ◆ ミ・ウニカ・ベルダード ◆ どちらも、はっきり歌ってこそいないが哀悼の内容なのだ。その一方で日本では、やがて新夫人となる人への曲 ― ルピータ ―も作ったりなんかして、まこと男を信じてはいけない。 ◆ ラ・コリエンテ / ナバーロ作。 “流れ”の意味でしかないが “時流” と解釈すべきだろう。「ディアリアメンテ」とのカップリングで 64年にシングルも出されている(5421)のだが、ハビエル・ソリス盤とどちたが先に吹込まれたのか。 ソリスのそれは5491(LPではDCS322でパンチョスの325より先行)、だがそれよりも何よりも5375にフアン・サラール歌のがあり、どうやらこれは北部スタイルだったらしい。曲内容からいってもナバーロはパンチョスで歌うことを前提に作ったのではないようだ。 ◆ ナーダ・デ・ティ / アルビーノ作。(Johnny_Albino_Solo_Live) ◆ フロール・シン・コロール / 同。たまたま入手したCBSの週報10号(日づけなし)にこの曲と「ミ・ウニカ・ベルダー」が今週発売とある。 また今週のヒットはハビエル・ソリスの「ラ・コリエンテ」と 「エントレーガ・トタール」であるとも(この2曲は別々のシングル)。そして、パンチョスは (今いったように日づけなし)16時15分メヒコ着の Cパル ―今やなきカナダ太平洋航空― 411便でドミニカより到着、 2時間後に出発、行き先はアメリカ、カナダ、、アラスカ フローレス曲集を一休みして、64年になったからのことだが 「エン・―(―の。―は国名、で、“―国での”)」と題されたLPが続々出される。オルチィス・ラモスによればその録音時期はこうなる。 ■ エン・ブラジル ― 63年2,3,8月 ■ エン・パラグアイ ―同10月 ■ エン・アルヘンティーナ ―同年だが月は記されていない。前にでたタンゴ集と混同しないこと。 これらのレコードは64年1月からおそらく5月までの間に市場に出ているから、既に言及したのも含めてまとめておこう。なお64年の新譜はDCA321から始まった。 ● DCS 325 カンタンド・ボレロ ―Disco UP ● DCS 326 エン・ハポン ● DCS 329 エン・パラグアイ ―Disco UP ● DCS 335 エン・アルヘンティーナ ―Disco UP ● DCS 336 エン・ブラジル ―Disco UP レコーデングは “秋めいてきた” リオ・ヂ・ジャネイロで行われた。曲は新旧いろいろだが当時大売れであったはずの人の作品が中心。もしもパンチョスが「ガロータ・ヂ・イパネマ(イパネマの娘)を歌ったなら、と想像するだけでもおかしく愉しい(注_145_b)とはいうものの「エン・ブラジル」はあらゆるイパネマ・ギャルに私がそのモデルよと競わせた人の作品で始まる。申しおくれたが全12曲とも例によってヒルのスペイン語詞、ブラジル独特の “哀感” と訳したのではことば足らずのサウダーヂ、そして特有の和音進行や扱いにメヒコの歌う大使たちもかなり手こずった録音であぅった。 ◆ ノ・エクシスティレー・シン・ティ / 58年アントニオ・カルロス・ジョビン(1927~94。愛称トン、フルネーム、アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アルメイダ・ジョビン)曲、ヴィニシウス・モライス(フルネーム、マルコス・ヴイニシウス・ヂ・クルス・ヂ・メーロ・モライス)詞エウ・ノン・エクシストン・ヴォーセ。完全にアルビーノのソロに終始する。 ◆ カリニョーソ / ピシンギーニャ(誰も本名のアルフレード・ダ・ローシャ・ヴ・アナ・フーリョで呼んだりしない)が1928年に作り自身の楽団で大当たりのをとったサンバーショーロ。ブラジルでの発音はカリニョーゾ。 これをパンチョス流にやろうといっても無理。 ◆ ジョーレ・コンミーゴ / 「ボクといっしょに泣いて」だがアヂリーノ・モレイラ作(63年)の題はショーレ・メウ・アモール、泣いておくれ恋人よ。 ◆ インデフェレンシア / あの「カミネモス」の作者ウンベルト・マルチンスの51年の作「インセルテーザ」だろう。 ◆ アマルグーラ・イ・アゴーニア / これも確信はないが、ドローレス・デュランがジョゼ・リバマール ―レコードにはリバーサル ― と作った「テルヌーラ・アンチーガ」だろう。歌手でもあるデュランは59年に29歳の若さで他界したがこの曲は60年に死後出版された。 ◆ アレペンティミエント / フェルナンド・セザルとデュランド作。このデュランドとあるのは女性シンガー・ソングライター、ドローレス・デュランのこと、57年作の「ソ・フィコウ・ア・サウダージ」とおもわれる。 ◆ ブエルベ・コラソン / フェルナンド・セザルとアルマンド・カヴァルカンチ作。 ◆ レベルソ / マリーノ・ピントとジルベルト・ミルフォントの50年作。ポルトガル語のタイトルも同じだが、発音はヘヴェルゾになる。 ◆ プルエーバ・デ・アモール / ポルチーニョとW・ファルソゥン作。 ◆ ジェーバメ・コンティーゴ / ドローレス・デュランの59年作「レヴァーミ・コンチーゴ」 ◆ シ・エル・ティエンポ・エンテンディエーラ / 51年マリーノ・ピントとマリオ・ロシ作「セ・ウ・テンポ・エンテンヂーゼ」 ◆ ノーチェ・デ・パス / デュランド作とあるがドローレス・デュラン作「ノイチ・ヂ・パス」。「ノーチェ・デ・パス」といえばあの有名なクリスマス・キャロル「サイレント・ナイト」のことなのだがこれはまったく別の曲だ。オルティス・ラモスのいうように「エン・ブラジル」の曲の一部が8月に録音されたのであれば、この曲は時期的にぴったり合う。クリスマスの曲の録音は8月ごろから始まるのだから。そして「サイレント・ナイト」のほうだがアビレス時代に録音したことがあるし、あとでアルビーノも歌っている。クリスマス・シーズンともなるとこのテの曲はステージでは必ず歌っていたに違いない。
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(注ー143_a) ラ・タリアクリことアマリア・メンドーサとか、これまたシンガー・ソングライターのアルマンド・マンサネーロとか。 | |||||||||||||||||||||
(145_b)アントニオ・カルロス・ジョビンが「ガロータ・ヂ・イパネマ」を発表したのは63年。メヒコではポルトガル語の歌はあたらないので、人気を呼んだのは65年、それもアメリカのヘンリー・マンシーニ楽団の演奏だった。 | |||||||||||||||||||||
(147_c) 白人によって非業な死をとげ、歌にも歌われた原住民のお姫さまは他にアナカオーナが知られ、古くはキューバ出身のアルマンド・オレーフィチェとバスケスの、比較的新しくはプエルト・リコとのC・クレート・アロンのさく(いずれも「アナカオーナ」)がある。彼女は現在はドミニカとハイチに二分されているエスパーニョーラ島のタイーノ族のパラグアー王国の女王だったがキリスト教徒たちは “女王への特別のはからい” で火あぶりではなく絞首刑にしたと1552年にバルトロネー・デ・ラス・カーサス神父が述べている。 | |||||||||||||||||||||
(147_d) 日本での通常の訳題「鐘つき鳥」は的を得ている。 | |||||||||||||||||||||
(147_e) 濱田滋郎は「パハロ・カンパーナ」の作者としてフラウタ奏者エロイ・マルティン・ペレス、ギター奏者カルロス・タラベーラをあげている。 | |||||||||||||||||||||
34_Johnny Albino_14. 「4回目の来日」 149 64年3月末、彼らは4回目の来日を果たす。その公演初日(3月28日m東京)を前に「ニュー・ラテン・クォーター」で記者会見が行われたのだが、当然 “62年に解散さよならコンサートをやったのに、どうして?” に質問は集中した。もっとも解散だとかさよならだとかは話題作りのでっちあげなのは記者諸氏はお見通しなのだが、一応は訊かなくてはならない。 その答えがふるっている “ヒルの健康のこともあって休業状態でしたが、国の代表としての活動を大統領からも要請されましたし”。 休業どころかずっと活動を続けていたのは今までに述べたとうりである。 それどころか、 64年1月にはニューヨークでどえらい… |
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