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Johnny Albino 13 「カンタンド・ボレロ」ニューヒットの録音 142

33_Johnny Albino_13. 「カンタンド・ボレロ」ニューヒットの録音 142
  Cantando Bolero
  63年2月にフローレス集の録音に一段落つきパンチョスはまたまた南米に向かうう。そこでもレコーディングするのだがそれはあとまわしにして5月~8月の吹込みと思われるものを先に記しておこう、これらはDCS325「カンタンド・ボレロ」と題され、64年1月か2月の新譜として発売される。その日本盤はざっと一年遅れて65年5月新譜YS447「ニュー・ヒット」である。新曲ばかりだから日本版のタイトルの方が的を得ているが「カンタンド・ボレロ」を名乗れなかったのにもわけがある。それとアメリカ版、これは比較的早く64年6月新譜なのだがES1019「ヒッツ」を引き継いだふしもある。
◆ パ・トード・エル・アーニョ / ランチェロのシンガー・ソングライターとして並ぶ者なきホセ・アルフレード・ヒメネス1926~1973)が62年に発表し、同年作のクリスマス・ソング「セ・バ・ディシエンブレ」ともども大当たりをとった。
ディオス・メ・セニャロー / 同、62年か63年の発表、前曲ともどもも元歌はランチェラである。ヒメネスの作品はパンチョスとは水と油であるはずだが、そうとばっかりもいっていられなくなるほどに人気を集めていた。
ムニェキータ・ネグラ / 同
メディア・ブエルタ / これ一曲だけは様相が違いホセ・アントニオ(.....)・ヒメネス作になっている。どうやらこの曲はもともとボレロ・ランチェロとして作られたらしい。ランチェロと断りがついてはいてもボレロである。ルーベン・フェンテスが「エル・ペカドール」の作者名に息子の名を用いたように、傾向が違う作品に別名を使ったのではないか。ましてヒメネス盤にはどれをとってもずらりとJ・A・ヒメネスの名がクレジットされているのに この曲だけホセ・アントニオ(ヒメネスなし)、とにかく彼は他者との共演(-143_a)とか特例を除いて自作曲しかレコーディングしなかった。もひとつ、彼の楽譜の出版社はPHAMだが、このの曲だけCAMPEIから出されたらしいこと、 カンペイというのは他ならぬアルフレード・ヒルが経営する会社(当たらなかったがレコードも出していた)である。もうひとつ面白いのは個性的なボレロ・ランチェロで当てたエル・タリアクリことフアン・メンドーサがランチェーラ録音したこと。なおパンチョス盤は前の曲もホセ・アントニオ・ヒメネスとクレジットされているが「ムニェキータ・ネグラ」はヒメネス盤ではJ・アルフレード・ヒメネスとなっている。

◆ アドベルテンシア / 問題のペドロ・フローレスの作品である。フローレス曲集の録音は63年1,2,5月とされるが、この曲の吹込みは5月では
なかったろうか。そこで推理してみる。 メヒコCBSの企画をキャッチしたフローレスがプエルト・リコから新作「アドベルテンシア」の楽譜を送って来た。早速パンチョスは録音、そして「テ・ロ・フーロ」とさし替える。だが新曲ばかりの「カンタンド・ボレロ」にも配列する。このようなことはあとに出てくる
「オーラス・ヌエストラス」にもいえる。作品集に対し、一方はヒット狙いの新曲集なのだから重複してもいいということか。だが日本へ音源を送る段になって、重複はまずいと気ずいてCBSはフローレス集には「テ・ロ・フーロ」をさし替えて発送した。
「カンタンド・ボレロ」も日本で出されるとの前提である。それから「カンタンド・ボレロ」のテープ送付にあたり『「XX」は重複するので以前さし替えた曲』とていねいに説明した。ここで解釈の違いが生じる。つまり「XX」は重複しているのだとこうして「アドベルテンシア」は別の曲とさし替えられる、それもよりにもよってバラーダの「エル・ペカドール」と。この曲がメヒコで人気があるとの知らせが入っていたのかも知れないし、もともと日本向けのテープに組み込まれていたと思われなくもない。
とにかく「エル・ペカドール」のシングルは前述のようにとっくに出ていたのだがLPとしては「カンタンド・ボレロ」のすぐ次、同時かひと月遅れなのだ。なんらかの行き違いがあったのだろうがバラーダがあるのでは「カンタンド・ボレロ」は名乗れず、いっぽう「アドベルテンシア」は日本で発売されずじまいだった。
◆  ディ・ケ・ノ・エス・ベルダー / 63年アルベルト・ドミンゲス(1913~1975)久々の作品。
◆ ディアリアメンテ / アルバーロ・カリジョ作、出版は翌64年。
◆ ミ・ウニカ・ベルダー / ヒル作。
◆ 
オーラス・ヌエストラス / 同、日本での録音の再吹込。前曲と聴き較べると、ヒルは奥方と死別したのではないかと思えてくる。
どちらも、はっきり歌ってこそいないが哀悼の内容なのだ。その一方で日本では、やがて新夫人となる人への曲 ―  ルピータ  ―も作ったりなんかして、まこと男を信じてはいけない。
◆ ラ・コリエンテ / ナバーロ作。 “流れ”の意味でしかないが “時流” と解釈すべきだろう。「ディアリアメンテ」とのカップリングで
64年にシングルも出されている(5421)のだが、ハビエル・ソリス盤とどちたが先に吹込まれたのか。
ソリスのそれは5491(LPではDCS322でパンチョスの325より先行)、だがそれよりも何よりも5375にフアン・サラール歌のがあり、どうやらこれは北部スタイルだったらしい。曲内容からいってもナバーロはパンチョスで歌うことを前提に作ったのではないようだ。
◆ ナーダ・デ・ティ / アルビーノ作。(Johnny_Albino_Solo_Live)
◆ フロール・シン・コロール / 同。たまたま入手したCBSの週報10号(日づけなし)にこの曲と「ミ・ウニカ・ベルダー」が今週発売とある。
また今週のヒットはハビエル・ソリスの「ラ・コリエンテ」と 「エントレーガ・トタール」であるとも(この2曲は別々のシングル)。そして、パンチョスは
(今いったように日づけなし)16時15分メヒコ着の Cパル ―今やなきカナダ太平洋航空― 411便でドミニカより到着、
2時間後に出発、行き先はアメリカ、カナダ、、アラスカ


  フローレス曲集を一休みして、64年になったからのことだが 「エン・―(―の。―は国名、で、“―国での”)」と題されたLPが続々出される。オルチィス・ラモスによればその録音時期はこうなる。
■ エン・ブラジル ― 63年2,3,8月
■ エン・パラグアイ ―同10月
■ エン・アルヘンティーナ ―同年だが月は記されていない。前にでたタンゴ集と混同しないこと。
 これらのレコードは64年1月からおそらく5月までの間に市場に出ているから、既に言及したのも含めてまとめておこう。なお64年の新譜はDCA321から始まった。
● DCS 325  カンタンド・ボレロ             ―Disco UP
● DCS 326  エン・ハポン
● DCS 329  エン・パラグアイ              ―Disco UP
● DCS 335  エン・アルヘンティーナ   ―Disco UP
● DCS 336  エン・ブラジル                  ―Disco UP
レコーデングは “秋めいてきた” リオ・ヂ・ジャネイロで行われた。曲は新旧いろいろだが当時大売れであったはずの人の作品が中心。もしもパンチョスが「ガロータ・ヂ・イパネマ(イパネマの娘)を歌ったなら、と想像するだけでもおかしく愉しい(_145_b)とはいうものの「エン・ブラジル」はあらゆるイパネマ・ギャルに私がそのモデルよと競わせた人の作品で始まる。申しおくれたが全12曲とも例によってヒルのスペイン語詞、ブラジル独特の “哀感” と訳したのではことば足らずのサウダーヂ、そして特有の和音進行や扱いにメヒコの歌う大使たちもかなり手こずった録音であぅった。
◆ ノ・エクシスティレー・シン・ティ / 58年アントニオ・カルロス・ジョビン(1927~94。愛称トン、フルネーム、アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アルメイダ・ジョビン)曲、ヴィニシウス・モライス(フルネーム、マルコス・ヴイニシウス・ヂ・クルス・ヂ・メーロ・モライス)詞エウ・ノン・エクシストン・ヴォーセ。完全にアルビーノのソロに終始する。
◆ カリニョーソ / ピシンギーニャ(誰も本名のアルフレード・ダ・ローシャ・ヴ・アナ・フーリョで呼んだりしない)が1928年に作り自身の楽団で大当たりのをとったサンバーショーロ。ブラジルでの発音はカリニョーゾ これをパンチョス流にやろうといっても無理。
◆ ジョーレ・コンミーゴ / 「ボクといっしょに泣いて」だがアヂリーノ・モレイラ作(63年)の題はショーレ・メウ・アモール、泣いておくれ恋人よ。
◆ インデフェレンシア / あの「カミネモス」の作者ウンベルト・マルチンスの51年の作「インセルテーザ」だろう。
◆ アマルグーラ・イ・アゴーニア / これも確信はないが、ドローレス・デュランがジョゼ・リバマール ―レコードにはリバーサル ―  と作った「テルヌーラ・アンチーガ」だろう。歌手でもあるデュランは59年に29歳の若さで他界したがこの曲は60年に死後出版された。
◆ アレペンティミエント / フェルナンド・セザルとデュランド作。このデュランドとあるのは女性シンガー・ソングライター、ドローレス・デュランのこと、57年作の「ソ・フィコウ・ア・サウダージ」とおもわれる。
◆ ブエルベ・コラソン / フェルナンド・セザルとアルマンド・カヴァルカンチ作。
◆ レベルソ / マリーノ・ピントとジルベルト・ミルフォンの50年作。ポルトガル語のタイトルも同じだが、発音はヘヴェルゾになる。
◆ プルエーバ・デ・アモール / ポルチーニョとW・ファルソゥン作。
◆ ジェーバメ・コンティーゴ / ドローレス・デュランの59年作「レヴァーミ・コンチーゴ」
◆ シ・エル・ティエンポ・エンテンディエーラ / 51年マリーノ・ピントとマリオ・ロシ作「セ・ウ・テンポ・エンテンヂーゼ」
◆ ノーチェ・デ・パス / デュランド作とあるがドローレス・デュラン作「ノイチ・ヂ・パス」。「ノーチェ・デ・パス」といえばあの有名なクリスマス・キャロル「サイレント・ナイト」のことなのだがこれはまったく別の曲だ。オルティス・ラモスのいうように「エン・ブラジル」の曲の一部が8月に録音されたのであれば、この曲は時期的にぴったり合う。クリスマスの曲の録音は8月ごろから始まるのだから。そして「サイレント・ナイト」のほうだがアビレス時代に録音したことがあるし、あとでアルビーノも歌っている。クリスマス・シーズンともなるとこのテの曲はステージでは必ず歌っていたに違いない。 
  En Paraguay
  さて「エン・パラグアイ」である。とにかくこの国には美しいメロディの曲が多く、アルパの国としても知られ、アルパ抜きのパラグアイ音楽は考えられないほどだ。そしてその多くが8分の6拍子だ。
パンチョスもバックにアルパを加え、神妙にハチロクで歌っている(よくぞボレロにしなかったものだ)が、レコーディングの地は南隣のアルゼンチン、ブエノスアイレスと見てよい。いや絶対にそうだ。メヒコにもパラグアイ人のアルパ奏者はいるし、メヒコも、ことにベラクルス州はアルパのくにだ。だが「エン・パラグアイ」がメヒコで録音されたようには思えないし、パンチョスがパラグアイに出かけたとも思えない。それよりも何よりもブエノス・アイエスの北 ラ・プラタ河やその上流パラナー河の沿岸(リトラル)はもうパラグアイ音楽との共通地域で、そのあたりの、またパラグアイの音楽家はブエノス・アイレスに流れ込んでいる。日本で出されているアルパ・パラグアージャのレコードはほとんどアルヘンティーナ録音なのだ。パンチョスがブエノス・アイレスでアルパ奏者とパラグアイ音楽を録音するのは雑作もないことだ。それにパラグアイ曲集といっても実際にはアルヘンティーナで作られた作品である。
◆ レクエルドス・デ・イパカライ / パラグアイの首都アスンシオンそばのイパカライー湖のほとりでの失った恋を歌い「クニャタイー(娘)」と題されることもある。デメトリオ・オルティス曲、スレーマ・デ・ミルキン詞、楽譜は53年にアルヘンティーナで出されている。
◆ ガロペーラ / 50年マウリシオ・カルドーソ・オカンポ作。
◆ ケ・セラー・デ・ティ / 42年デメトリオ・オルティス曲、パラグアイ調の曲を得意とし若くして交通事故死したアルヘンティーナの歌手マリア・テレーサ・マルケス詞。
◆ ミス・ノーチェス・シンティ / 50年同じコンビの作品でマルケスが絶唱ともいうべき名唱を遺したのでパンチョスは分が悪い。
◆ ミ・パラガアジータ / フェルナンド・リバローラ作。
◆ アナイ / アルヘンティーナのリトラル出身の詩人・作曲家オスバルド・ソーサ・コルデーロ作(42年)でこれまたマリア・テレーサ・マルケスの名唱で知られる。アナイーはスペイン語でセイボ、アルヘンティーナやウルグアイの国花とされている豆科植物。白人たちによって火あぶりにされたグアラーの女王がセイボの花に生まれ変ったという伝説が歌われているが、この話はかぐや姫や羽衣と同じように創作伝説で征服期(14世紀)のスペイン人による暴虐は史実だがアナイー姫はその名ともども実在したわけではない。(-147_c
◆ パハロ・カンパーナ / その鳴き音から「鐘鳥(-147_d)」と呼ばれるこの小鳥のグアラニー語での名はグアイラー・プー、もしくはグアイラー・トゥピン。もともと素朴な演奏曲だったはずだ(-147_e)がアルパ・パラグアージャの祖と仰がれる。フェリクス・ペレス・カルドーソ(1908~1952)によって完成された。少なくとも29年以前にアルヘンティーナでレコードが出されている。このパンチョス版もアルパの演奏に始終(奏者名を明記すべきだ)しちょぴり “鐘つき鳥の泣き声をアルパで模写しょう” と
声が入るだけ、ヒルが弾きまくると期待するとすっぽかされる。だがアルパの奏者で実際にこのようなことが行なわれることもあろう(聴いたことなし)し、レコードにクレジットされている名 O、ガオナはこのことばを作った人なのかも知れない。
◆ ムイ・セルカ・デ・ミ / フロレンティン・ヒメネス曲、ベン・モラール詞。作詞者はアルヘンティーナの人。
◆ パハロ・チョグイ / これも鳴き音から名付けられた 小鳥に因む伝説曲、グアラニー語での発音はジョグイ。作者名にピタグアとあるが、これは人名ではない。グアラニー語で “無名” ということ、つまり作者不明の伝承曲(もしくは作者の遊び心)で、インディオ・ピタグアとクレヂットされたレコードもある。
 ミ・デスティーノ / カルロス・ルビエラ・インファンテ作。
◆ エスペランサ・ミア / デメトリオ・オルティス作。
◆ ミ・ディチャ・レハーナ / エミグディオ・アジャーラ・バエス作(53年)。レコードに最初にきざんだのは54年にヨーロパでの音楽祭に参加したトリオ・ロス・パラグアジョスだろう。日本でも発売され「遥けき恋路」が定訳題になったが、どこを間違ったか「遥けき旅路」とJRのコマーシャルまがいの題のもある。
  なおこのLP(上記の曲順はメヒコ版による)のジャヤケットのパンチョスは三人ともパラグアイ風の服を着ていた。もっとも顔以外は絵なのだけれど、携えているギターがヒルのだけ小ぶり ―つまりレキント― なのが流石(?)。
   En Argentina
  続く 「エン・アルヘンチィーナ」 だが “エン・―” シリーズのためにこのような題になったが “カルロス・ガルデル作品集” であって、タンゴだけではない。詞の多くは僚友アルフレード・レ・ペラが書いている。
 シレンシオ / R・エルナンデスの同題の曲は「静かに(しておくれ)」との呼びかけ、つまり動詞だが、こちらは「静寂」、名詞である。第一次世界大戦で五人の息子を失い、今手元にあるのはいつつの勲章だけの母が主題で、およそパンチョス的ではない。
◆ ミ・ブエノス・アイレス・ケリード / 以前「エン・ペルソーナ」でひとくさりだけやったのをまるまる一曲、そしてアビレス期からの再録音。
◆ ボルビオーウナ・ノーチェ
◆ アモーレス・デ・エストゥディアンテ
◆ アマルグーラ
◆ ゴロンドリーナ
◆ カミニート・ソレアード
◆ メロディア・デ・アラバル
◆ スス・オホス・セラーロン
◆ ギターラ・ミア
◆ アラバル・アマルゴ
◆ トーモ・イ・オブリーゴ
注ー143_a) ラ・タリアクリことアマリア・メンドーサとか、これまたシンガー・ソングライターのアルマンド・マンサネーロとか。
145_b)アントニオ・カルロス・ジョビンが「ガロータ・ヂ・イパネマ」を発表したのは63年。メヒコではポルトガル語の歌はあたらないので、人気を呼んだのは65年、それもアメリカのヘンリー・マンシーニ楽団の演奏だった。
147_c) 白人によって非業な死をとげ、歌にも歌われた原住民のお姫さまは他にアナカオーナが知られ、古くはキューバ出身のアルマンド・オレーフィチェとバスケスの、比較的新しくはプエルト・リコとのC・クレー・アロンのさく(いずれも「アナカオーナ」)がある。彼女は現在はドミニカとハイチに二分されているエスパーニョーラ島のタイーノ族のパラグアー王国の女王だったがキリスト教徒たちは “女王への特別のはからい” で火あぶりではなく絞首刑にしたと1552年にバルトロネー・デ・ラス・カーサス神父が述べている。
147_d) 日本での通常の訳題「鐘つき鳥」は的を得ている。
147_e) 濱田滋郎は「パハロ・カンパーナ」の作者としてフラウタ奏者エロイ・マルティン・ペレス、ギター奏者カルロス・タラベーラをあげている。
34_Johnny Albino_14. 「4回目の来日」 149
  64年3月末、彼らは4回目の来日を果たす。その公演初日(3月28日m東京)を前に「ニュー・ラテン・クォーター」で記者会見が行われたのだが、当然 “62年に解散さよならコンサートをやったのに、どうして?” に質問は集中した。もっとも解散だとかさよならだとかは話題作りのでっちあげなのは記者諸氏はお見通しなのだが、一応は訊かなくてはならない。
  その答えがふるっている “ヒルの健康のこともあって休業状態でしたが、国の代表としての活動を大統領からも要請されましたし”。 休業どころかずっと活動を続けていたのは今までに述べたとうりである。
それどころか、 64年1月にはニューヨークでどえらい…
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