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34_Johnny Albino_14. 「4度目の来日を果たす」 149 |
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◆ストレンジャー・イン・パラダイス ◆ ティル ◆オーチャズ・イン・ムーンライト ◆モナ・リサ ◆ オルティス・ラモスはこれらのレコーディングにミゲル・ポペントゥが第2レキントで加わっていると指摘している。これはレキントが2本ということではなく、 曲によってはポベントゥがヒルの代理に弾いているという意味である。女性がトップであるため、当然音程をさげねばならない。例えば「ある恋の物語」はいつもの編曲(音)では通用しなくなる。そこで他者にまかせた、このようなことだったのだろう。ブリッジが入るはずのところが空白だったり、先述の指摘でナルホドと納得させられる。けれどもそれだけの理由ではない。 “ヒルの代理” については、別の機会にゆずろう。 ニューヨーク録音には、もうひとつの目的があった。こちらの目的も、“アメリカン・ブレンドのパンチョス” でアメリカの人気歌手のイーディ・ゴーメとの共演である。 このような人種を超えた共演は、それまでにビング・クロスビーやダイナ・ショアとハビエル・クガー、楽団(ことにビンクロはデッカの専属、この録音のためにコロンビアは専属のクギー楽団をデッカに貸し出すという会社間を越えた共演)、ローズマリー・クルーニーやアーサー・キットとペレス・プラード楽団があった。だが それら以上にマノ・ア・マノ(五分五分=共演)の感覚が強いなんといっても歌と歌とのぶつかりあいなのだから。それもスリー・キャッツやハニー・ペアーズ、フィリピンのなにがしとやらとの共演とは、わけが違う。どちらも国を代表する一級アーティストなのである。 イーディ・ゴーメは1933年(本当は31年とか)8月16日 NY ブロンクス生まれだが、両親ともトルコからの移民で、しかも古風なスペイン語を話していたという。くわしい経歴は省略するが、62年にユナイトからCBSに移ったとたん 「ブレイム・イット・オン・ボサノバ(恋はボサノバ)」 が大当たり、一躍 CBS のトップ・スターになった。パンチョスとの出会いは62年に NY のクラブ「コパカバーナ」の同じステージに立った時だった。「コパカバーナ」は56年以来彼女にはなじみの深いスポットであった。 スペイン語で歌うことはゴーメにとっては難ないこと(ボサノバ以外にも彼女はラテンナンバーの LP をだしている(150-a)だったが、やはり母国語ではないから完全ではない。そこでヒル夫人ルピータがレコーディング中つきっきりでコーチした(それでも怪しげなところがあるのは、ルピータが席をはずしていた? もっともあんまり完璧だと、かえって国境を越えた共演の意味がうすれようか)。57年にゴーメの夫となった歌手ステーブ・ロレンスもひんぱんに録音スタジオを訪れた(この二人はおしどりカップルとうたわれ、CBS入りも同時である)。 「アモール」と題されたこのLPはEX(ES)記号ではなく米 CBS の記号で出された(CL_2203、CS_9003)。そしてメヒコでも「バイ・スペシャル・リクエスト」のようにそっぽを向かれることもなくDCS_359として発売されただけでなく評判もよかった。ゴーメはメヒカーノに受けいれられたのだ。65年11月にメヒコ CBS が発売した LP ベストセラー第3位。第1位は当時南米コロンビアのリズム クンビアが当たっていたので、カルメン・リベーロ楽団の「ア・バイラール・ラ・クンビア」(DCS_377)、それは分かるが2位がかの「エポ・デ・オロ第1集」とは...。 もとより主役はゴーメだが、パンチョスはビルヒニア・ロペスのトリオ・インペリオのように伴奏トリオ(151-b)ではない。このような伴奏トリオにはビルの後釜を狙ったジョランダとトリオ・ペルラ・ネグラ(黒真珠)とかロス・トレス・コン・エジャ(彼女と三人)。なんとすばらしいネーミングだろうか!(151-c)などがあって、いずれも楽団よりもトリオ伴奏で生きる声と計算してのこと、 けれども伴奏はあくまで伴奏、いわばカラオケであって一本立ちできない二流トリオ扱いしかされない。パンチョスの立場はそうではなく、歌舞伎界でいう顔見世興行である。(151-d) 曲目の選定がどのようにしてなされたのかは分からないが、女と男の声のバランス上、パンチョス側はナバロがソロをとることが多い。それでもゴーメとアルビーノの一聴女性二重唱みたいなところもあったりして面白い。 ◆イストリア・デ・ウン・アモール ◆アモール ◆ノーチェ・デ・ロンダ ◆イ ◆ノソトロス ◆カミニート ◆ラ・ウルティマ・ノーチェ ◆メディア・ブエルタ ◆サボール・ア・ミ ◆クアンド・ブエルバ・ア・トゥ・ラード / この曲だけはパンチョスとしては後にも先にもこれっきり。34年マリア・グレベールの作品で、アメリカでも「ホワット・ア・ディファレンスト・ア・デ・メイクス」の題でスタンダード(「縁は異なもの」という名訳題もあった)だったからゴーメも歌い慣れていたのではないか。 ◆ディ・ケ・ノ・エス・ベルダー / あの「フレネシ」「ペルフィディァ」の作者アルベルト・ドミンゲスの63年作。女性にふさわしい 内容を持ち、このアルバムの中で65年前半に爆発的といわないまでもヒットした(シングル・カットされたか)。 ミリオン・セラーといわないまでもこのレコードはよく売れた。だからその年の7月には第2集が録音される。CL_3006(CS_9176)タイトルも前集を引き継いで「モア・アモール」、もっともこれは前集の好評を受けて、作られた、アルバム中の一曲のタイトルであって、メヒコ盤(DCS_416)の題は「クアトロ・ビーダス」だった。レパートリーも広がって、パンチョスには新曲が並ぶ。ここでもミゲル・ポベントゥがレキントに参加する。 ◆ベレーダ・トロピカル / 36年 ゴンサーロ・クリエル作。 ◆ギターラ・ロマーナ / ディ・ラツツアーノ作 カンツォーネ「チターラ・ロマーナ」 ◆クアトロ・ビーダス / 39年 フスト・カレーラス作。 ◆ノ・テ・バージャス・シン・ミ / このあたりでヒルの作を。 ◆デセスペラダメンテ / 40年 ガブリエル・ルイス曲、リカルド・ロペス・メンデス詞。 ◆マス・アモール / ゴーメとローレンス、つまり夫妻共作、だからもとは「モア・アモール」だったのかも、そしてボサノバだったのではとも思う。 ◆オラシオン・カリーベ / 34年 アグスティン・ララ作。 ◆フローレス・ネグラス / キューバのセルヒオ・デ・カルロ作。イントロをパシージョにしているのはパシージョの名曲「ミス・フローレス・ネグラス」を意識したためだろうか。 ◆マラ・ノーチェ / 41年 アルベルト・ドミンゲス作、ディアマンテスも録音している。 ◆フエゴ・バホ・トゥ・ピエル / エクトル・エルナンデス作。 ◆ルーナ・ルネーラ / T・フエルゴ作 ◆ノーチェシータ / ベラクルスのエルマノス・ウエスカの二番目ビクトル・ウエスカ39年の作。だがナルシーソ・デルガードはじめ俺の曲だと訴える者もある。 このレコードも好評で米CBSは三匹目のどじょうを狙う。 だが目先を変えた。 それは一年のち65年10月に録音され、曲数(10曲)のせいか、内容のせいか(クリスマス・レコードは場当たりである)CBSではなく、康価盤のハーモニー レーベルから出された。いわく KH30675 「ナビーダ・ミーンズ・クリスマス」、(EXシリーズはのちにカイトロニクス・レーベルから出るが、そ時も 1 ランク安いカリエンテ・レーベルだった)、10曲入りにも拘らず、メヒコではDCS_485としてCBSの通常の扱いで出された。けれども「ナビーダはクリスマスの意味」などという題はつかうわけにはいかず、「ブランカ・ナビダー」に改めている。 ◆ノーチェ・デ・パス / サイレント・ナイト。アビレスでもアルビーノでも録音ずみ。 ◆ブランカ・ナビダー / アービング・バーリン作「ホワイト・クリスマス」。とにかくアメリカのクリスマスはこの曲なしにはおさまらない。 ◆グラシアス・ア・ディオス / ヒル作。 ◆ナビダー・イ・アーニョ・ヌエーボ / はるか昔のナバーロの作品でアビレス時代にはウアパンゴでやっていた。ファルセーテが入るわけでもなかったが、ボレロ(早いテンポ)の今回は、ゴーメが高音と低音で往時のファルセーテ ◆メルチョール・ガスパール・イ・バルタサール / ファン・S(サンティアーゴ)・ガリード作。メヒコ音楽研究家としても高名な作者が自著に65年作 ビジャンシーコ(クリスマス・キャロル)としているから出来たてのほやほやだったわけで、創唱かも知れない。 メルチョール・ガスパール・バルタサールは生まれたばかりのヘスス(イエス)に最初の贈りものをした王様たちの名前。彼らは東方から来たので、前間奏はオリエント調だ。 ◆アレグレ・ナビダー / F.M. ラモス作。アルビーノがアイレロぶしを聞かせる。プエルトリコのクリスマス・キャロルである アギナルドなのだろう。 ◆カンシオン・パラ・メディタール / C.G. バレーラ作。 ◆グローリア・ア・ディオス・エン・ラス・アルトゥーラス / A . トーレス作。 ◆アギナルド No.1 / S.ペレス編曲とあるだけ。アギナルドはプエルト・リコの伝統的なクリスマス・キャロル(リズムや形式は問わない)だが、本来はクリスマス・プレゼントのチップ、つまりプレゼントを配達しに来るボーイへの心づけである。クリスマス・シーズンには4弦のギターの仲間クアトロやギターを持ったグループが各家庭を歌い巡って何がしのチップをもらう(獅子舞いやなまはげと同じ)が、その歌自体もアギナルドと呼ばれるようになったのである。 ◆フェリーセス・パスクアス / P.フローレス作。ペドロ・フローレス? 弦が入る曲もあるこのアルバムには、ミゲリート・ポベントゥのレキントも加わっているが、クァトロの名手ジョモ・トーロも加入している。1926年3月7日プエルト・リコの片田舎で生まれた彼は プエルト・リコのひなびた音楽に欠かせない人材だが、ニューヨークに入ってからは、このアルバムののち脚光を浴びた サルサにも首をつっこみ、71年のファニア・オールスターズのクラブ「チーター」でのライヴにも参加したしFASと日本にも来ている。本名ビクトル・ギジェルモ・トーロ、なお彼は左利きである。 アメリカの音楽界にはうといのだが、ゴーメのその後について知っていることだけを記そう、68年に夫 ローレンスとステージⅡというプロダクションをおこした彼女は CBS から独立(RCAに加わったとも)、76年ごろココから出したアルバム「ラ・ゴーメ(スペイン語の定冠詞が示すようにラテン曲集)」がスパニッシュの間で大評判をとった。 82年にソニー(CBS ソニーは最早ソニーになっていた)がリリースしたアルバムもラテン・ナンバー で夫妻共演2曲、BMG・アリオーラ(RCAもなくなっていた)が貸し出したアルマンド・マンサネーロ共演の「ソモス」(何故)がシンガー・ソングライターであマンサネーロの作ではなく、50年代後半のアルゼンチンのボレロ)、そして40、50年代のペドロ・インファンテのビック・ヒット「アモール・シート・コラソン(パンチョス・メロディのひとつ。だが前にも書いたが、彼らのオルジナル・ヒットではない)」「テキエロ・アシー」、これもドゥオだ、お相手はジョニィ・アルビーノーそれがいいたくて書いてきたわけだ。 Eydie Gormé/Johnny Albino(Amorcito_corazon) |
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イーディ・ゴーメとの共演のことで先行してしまったが、64年に話を戻そう。3月28日東京大手町サンケイホール公演がその初日である。再結成 ?
の言わけは先にふれたが、その上に「これからも毎年来ます」とぶち上げたものだ。 ところで64年の日本といえば “大変ビッグなイベントがあった年である。オリンピックだ。その湧き立ちぶりにナバーロは早速 ◆オリンピアーダ・エン・ハポンを作り上げ、5月17日の東京での最終公演(新宿の厚生年金会館)で、まだアレンジができてないからとて自身のソロで歌った。ナバーロのソロといえば「セ・ジャーマ・フジヤマ」もそうだっった。以前はハニ・ペアーズとの共演で彼女たちのパートは音を下げていた(転調)のだがその時も東京キューバン・ボーイズの伴奏を今回もそのまま用いたのでナバーロのキーになったのである。その後も楽団伴奏がつかなくてもこのフォームを用いるようになったが、なんとも不自然である。(Sellama Fujiyama)Live 日本語 詞 志摩由紀夫 それはさておきこの曲はすぐにコロンビア(レーベル名はCBSになっていた)が録音する。だが大部分が日本語(志摩由起夫)である上にB面が ◆月の砂漠(詞ー加藤まさお、曲-佐々木すぐる)だというのだから、わけが分からない。だがそのスペイン語詞を作ったのはナバーロだった。 この来日ではゴーメとの共演のことなどおくびにも出さずに三部構成の第二部ではエルナンデス、フローレスの曲をPRしていた。 そして64年には9月から10月にかけて、またまた来日する。今回は「ラテン・フェスティバル」と題して、ヒルの出したアイディアだというがメヒコ・シティのレビューステージをそのまま移したかのように豪華な顔ぶれ、いわくマリア・デ・ルールデス(155-e)アルハンドロ・アルガーラ、ロス・トレス・ディアマンテス、マリアチ・バルガス・デ・テカリトラン、国井敏成(155-f)日本側歌手、東京キューバン・ボーイズ、この人はこの顔ぶれには水と油の感もあったがアフロ・クバーノ系のトゥンバの名手キャンディド(カンディド)(155-j)。だがいささか船頭が多すぎて呼び屋は大赤字だったようだ。
この時の来日直前か帰国後の録音と思われるのが ◆ノーチェ・デ・パスと ◆ナビダー・イ・アーニョ・ヌエーボだ。前者(サイレント・ナイト)はアビレス時代に録音しており、前述したが62年にアルビーノ期の日本録音「ポブレス・・ウエルファニートス」とのカップリングも出されている。だがそれは資料上で見たことで耳で確認したのではないから、その「ンーチェ・デ・パス」のトップがアルビーノだったこともないわけでもない(まずあり得ないが)。一方「ナビダー・イ・アーニョ・ヌエーボ」はこれも先に述べてしまったが、イーディ・ゴーメと共演している。アビレス時代にウアパンゴふうにやった曲だがアビレス期のは当然としてもパンチョスだけの録音のほうが先だったわけだ(ゴーメとのは65年)。これでゴーメがファルセーテばりの高音を使ったわけも分かる。ナバーロのパートを演じているのだ。 以上の二曲はシングルも出されたかと思うがLPとしては他のアーティストたちとのオムニバスで64年のクリスマス・シーズンに出された。DCS_368「アレグレ・ナビダー」がそれで、ゴーメ~パンチョス(第1集)のすぐあとである。 |
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(注ー150_a) ボサノバがアメリカに |
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(151_b) トリオ・インペリオだけで出演する(歌う)機会はない。が64年来日の際、日本側プロモーターの希望で「ラ・マラゲーニャ」など数曲を歌ったことがある(急ごしらえのひどいもの)。そして66年に米国で録音(ビル抜き)したこともあった。その名がすごい。トリオ・インペリオ・デ・ビルヒニア・ロペス!!二種類あって一方はトリオ・カバジェロス、その名から察せられるようにレキントとリーダー格はもとロス・トレス・カバジェロスのチャミン・コレア。 | |||||||
(151_c) メヒコ・オリンピックが行われた1968年、帆足まり子(マリキータ)がメヒコでトリオを組んだ時、ディアマンテスのサウロ・セダーノにネーミングを相談すると一も二もなく彼が推したのがロス・トレス(三人)だった。尻切れとんぼみたいだと彼女ははねつけて、結局トリオ結成に尽力してくれた人の名をとり ソサヤ・トリオにした(CBS ソニー発足時に LP が出た)。 | |||||||
(151_d) 一流トリオがカラトリをやったのを幸いにして私は一度だけ聴いたことがある。年次は忘れたが東京でのメヒコ映画祭(実はメヒコ映画の売り込み PR )でのローラ・ベルトランとロス・トレス・ディアマンテス、その「ククルクク・パロマ」はすばらしいものだった。肝心の映画のほうはたまたま観た作品は英語の吹き替え版(字幕なし)、アントニオ・アギラール主演の革命戦争ものだったが、同席したディアマンのメンバーともども口あんぐり。 | |||||||
(155-e) 帰国後「さくら さくら」や「七つの子」は さてはインドネシアの「ブンガワン・ソロ」まで録音したが(オルフェオン)メヒコで発売されたかどうかは不明。ルールデスはことばどおりよめばロールデスで、日本のレコード等でもそう表記されているが、メヒコではオリジナルどおりにルールデスと発音している。 Miller も、(ミリエールではなくミーリェル)。これらは習慣上のこと。 | |||||||
(155-f) 年代は記憶にないがニューヨークで活動中死去。不名誉ながらエイズで生命を落とした最初の日本人になってしまった。 | |||||||
(155-j) 当初の予定ではキューバ (プエルト・ルコかも)出身でメヒコに居ついていたロボ・イ・メロンのコンフントのはずだった。 | |||||||
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ZOZAYA TRIO CBS/SONY SONG 80110-j | ZOZAYA TRIO CBS/SONY-SONP_50166 | NIPPON/COLUMBIA_LL_636 | |||||
35_Johnny Albino_15. 「LPアルバム順に」 156 65年以降はアルバム順に見て行こう。まずDCA_385.これはモノラルだけでステレオはない。当然だ。ロドリゲス期の再編集だから(コロンビアSL_1203~4の二枚目)。次がDCS_396「エ・サビード・ケ・テ・アマーバ」、64年後半の録音だろうか、その頃のヒット曲もはいっている。 ◆エ・サビード・ケ・テ・アマーバ / バルセローナ(スペイン)の地中海フェスティバルの優勝曲だそうな。L,テンコ、ビル・ルアノ、フリオ・ギン・クラーラとクレジットされている。ただしこの曲がメヒコで当たったという記録はない。 ◆ラ・ノーチェ・デ・ミ・アモール / ドローレス・ドゥラン作、59年の「ア・ノイチ・ド・メウ・ベン」 ◆ペルドーナメ・ミ・ビーダ / … |
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