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(b)当時手持ちになかったチクレ モリナガの音源を探求にあたりS氏が森永製菓に問われた。(02年9月) 氏より作成者に頂いた資料によりますと。(S氏掲載了解済み) 森永製菓からの回答。 結論、 当時、昭和35年。チューインガムの売り込みにトリオ・ロス・パンチョスを起用し、テレビ用、映画館用、ラジオ用のコマーシャルを作ったことは分かっていますが、映像も音声も史料室に残ってはおりませんでした。 補足 トリオ・ロス・パンチョスに関する資料を全て探しましたが、新聞広告類があったことと、当時、広告部長だった藤本倫夫氏らの共著「コマソン繁盛記」に紹介されたエピソードと楽譜つき歌詞で様子が知れる程度の収穫しかありませんでした。 以上 ★楽譜 日本工業新聞社・刊「コマソン繁盛記」より ★♪トリオ・ロス・パンチョスの置きみやげ ― 藤本倫夫著 ★以上二点が回答としてS氏に送付されてきた。 |
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★森永製菓でチューインガムを発売したのは、昭和6年で、五枚包みが五銭であった。国産のガムとしてはハシリだったとおもう。どういうわけか、先駆者でありながら、中絶した製品の多い森永である。その後昭和9年には「歯のチューインガム」を発売しているし、輸入のリグレーに対抗して、ひとり気を吐いていたのだが、戦前にガムの原料が輸入困難となって中止したらしい。 戦後は、25年に甘味品の統制解除となってから、キャラメルについでチューインガムを発売し、甘いものなら何でも売れた時代に、主力製品の一つだった。ただ、ロッテやハリスという国産のガムが出て、しかも両社とも専業だったので、競争も激化していった。 ガムの原料の天然チクル(ゴム)をメキシコから輸入し、本格的なガムは森永だけだったので、合成樹脂を原料とする他品に対しては、「天然チクル」を売りものに宣伝したのだが、どうしたことか、合成樹脂のやわらかい感触が、一般の嗜好に合ったらしくて、折角の良質品は理解きれず、やや敬遠気味であった。当時人気の焦点だったウオルト・ディズニーと特約して「ディズニー・ガム」を発売(五円)34年には三木鶏郎作詞・作曲の「森永チューインガム」、35年には西山真彦作詞・作曲の「モリナガ・ディズニーガム」をつくり、ラジオ・テレビで巻き返したものである。しかし同じころの昭和34年につくったトリオ・ロス・パンチョス作詞・作曲の「チクレ・モリナガ」は、もっともヒットしたコマソンとして、電通賞をはじめ各賞に入った。 当時広告部長でこれに関係した筆者には、ちょっと他人に知られない苦労と、逸話がある。 その前年の12月にNTV(日本テレビ)が初めてカラーCMを放映し、CMはカラー時代に移るだろうと予測されていた。メキシコから初めて森永がスポンサーで、トリオ・ロス・パンチョスを招聘することになり、彼らのカラー写真を見たときから、こいつはカラフルな衣装だけでもおもしろいと考えていたし、チクルの本場メキシコの連中だから製品イメージのアップに役立つだろうと期待していた。 やって来た彼らトリオは、果たして期待どおり素朴な人柄だった。プロと言っても、歌だけでは生活できない国情で、一人は医者、一人は牧場主、一人は楽器店主という奇妙なとりあわせである。 森永では、製品の消費者招待宣伝のため、全国主要都市でパンチョスの公演を催したが、至るところ超満員の盛況で、すばらしい人気が盛り上がった。 私は彼らが地方公演に出る前に、チューィン・ガムのコマソンを作ることを依頼した。あの独特の美声とメロディでガムのムードをつくり上げて欲しいと注文した。 彼らは旅行中に三人で作曲し、スペイン語の歌詞をつけてくれた。出来上がったのは、静岡公会堂での最終公演会のときであった。そのコマソンは公演プログラムに組み入れて発表したが、実に感動的な大拍手で、アンコール3回に及んだ。コマソンが、彼らの持つレギュラーよりも受けたということは、彼らにとっても意外な結果であった。 ついでながら、このコマソンの作曲料は三十万円であった。ラジオ、テレビのCMと映画館用のCMへの、出演料を含めてのギャラであった。いま考えればバカ安だが、その時は申請書がなかなか通らず、経理担当の重役に懇願して、「これは大フンパツですよ」とようやく許可を得たことを想い出す。 「チクレ・モリナガ」は、コマソンの短いタイムにパンチョスのメロディやすばらしい美声のエッセンスが集結されたもので、その後も長く流されて好評だった。(日本天然色映画製作) もう一つ。パンチョスについては苦心談がある。精力的な彼らが、永く故国を離れて、もてあましている・・・・・・・・・・以上。藤本倫夫著(日本工業新聞社・刊)「コマソン繁昌記」より. ark |
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★昭和35年4月1日 朝日新聞 | ||||
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