0 Consuelo Velázquez Bésame Mucho
Consuelo Velázquez さんが2005年1月22日 メヒコで亡くなった。谷川 越二さんのパンチョス・イストリアは原稿の41ページにベサメ・ムーチョ が書かれています先にその部分を掲載します。
我が日本では、パンチョスといえばベサメ・ムーチョであり、ベサメ・ムーチョといえばパンチョスである。まさしくベサメ・ムーチョはパンチョスの代名詞的存在である。パンチョスのヒット曲ラジート・デ・ルナだシン・ティだなどとしかめっつらしようとも、この曲のお世話にならなかったパンチョス・ファンがいるとは到底思えない。だから本すじからは離脱するが一章を設けるべきだろう。本すじを追うかたは、すっとばして結構。とにかくパンチョスはベサメ・ムーチョとともに、正確にはベサメ・ムーチョの入ったLPとともに日本に登場した。これも正確にいうとその少し前から放送を通じてファンの耳には達していた。紹介者はタンゴ評論家の高山正彦である。いっぽうロス・トレス・ディアマンテスをプッシュしたのが、これもラテンというよりタンゴ評論家の高橋忠雄だった。一見不自然なようだがタンゴやラテンを語れる人といえば当事両氏をおいてほかになかったのである。
コンチェルト・ピァニスタを志していたハリスコ州シウダー・グスマン出身のコンスエーロ・ベラスケスがポピュラーに転向しての処女作(1941年、彼女は20か21歳)ベサメ・ムーチョをヒットさせたのはアンデイ・ラッセル。本名アンドレス・ローバゴだった。彼はロス・アンゼルス生まれのメヒカーノ(40年代にはチカーノということばはなかったろう)で、アメリカではメヒコの曲を英語で歌い、メヒコでは米国の曲をスペイン語で歌って― 多分ルセルとよばれていたろう ― 人気があった。日本でもそのセレナータ・ア・ラ・ルス・デ・ラ・ルーナが出されたとある。月光小夜曲と親切に訳すとわからなくなるが、あのトロンボーン・サウンドで有名な曲である。
ところで日本で初めてベサメ・ムーチョが録音(少なくともレコード史に残るほどのそれ)がなされた時とパンチョスが盤面に刻んだ時がほぼ同じということは指摘されたことがないのだが因縁めいたものを覚える。パンチョスのは今まで述べてきたとうりだが日本のほうはオリジナルなヒットもあったがタンゴを得意にしていた黒木曜子の歌で1950年8月新譜(だからこちらのほうが先輩なのだ。パンチョスは脱帽せよ)。(註・1)"どんなに雨が降っても風が吹き荒れても゛激しいくちづけを交わすという今から見れば大時代な詩なのだが、そしてひばりの「東京キッド」や藤山一郎の「山のかなたに」、外国曲ではバッテンボー(ボタンとリボン)ほどではなかったがヒットした。伴奏がオルケスタ・ティピカ・コロムビアとレコード会社名を冠しているが実は日本が誇るタンゴ楽団本場アルゼンチンにも行ったオルケスタ・ティピカ東京なのである。当時は洋風楽団といえばスイング・バンドとタンゴ・バンドしかなく、東京キューバン・ボーイズも49年の結成、(註・2)レコード会社からお呼びのかかる立場になかった。それどころか、ティピカ東京にしてもこのベサメ・ムーチョが初吹込みだったという。黒木曜子うたのベサメ・ムーチョの元になったのが何なのかは分からない。Youko Kuroki Besame Muchoアンディ・ルセルのそれとも思えないが、たしかにeach time I eling to your kiss I hear music divine うんぬんという英詩は流布していた。だがキスミー マッチという題よりもベサメ・ムーチョで知られていたことは彼女のレコードからも分かる。それから3年、正確には52年の内だろう、アメリカからLPが送られてきて、日本でも発売の機運がが高まってきた。その中に例のベスト・セラーズがあったのである。しかもこれまた黒木が録音していたキエレメ・ムーチョもある。これこそオリジナルとコロムビアが飛びついたのは当然である。こうして53年にコロムビアPL_2005「ラテン アメリカ名曲選」が発売され、それを追ってSPも出る。いまでいうシングル カットである。ところで私は聞いてないのだが黒木の録音曲に「今宵こそムーチョ・ムーチョ」というのがあるのだが、これはもしかして50年代前半に作られたウッド・アイ・ラブ・ユーのことではないだろうか。この曲はメヒコではマリア・ビクトリアがムーチョ・ムーチョの題で歌ってヒットさせた。その作者名はラッセル、スビーナ、デ・ジャーノ。1953年というのはパンチョスが本格的に日本にデビューした年であるけれども、日本人がラテン・トリオを始めて見た年でもあった。(註・3)この年はルンバ王ハビエル・クガー初来日の年であった。本来の目的は進駐軍(在日米軍を当時はこう呼んだ)慰問で日本人はそのおこぼれにあずかったのだが二回も来て、今やなき東京の国際劇場や軍に接収されてアーニー・パイル劇場と称していた東京宝塚(東宝)劇場などに出演したのだが、その二回目の時にトリオ・ロス・ラティーノスというギター弾き語りのトリオを連れて来たのである。メンバー個々の名は今となっては知る由もないがラ・マラゲーニャでファルセーテの歌い手に横から「長いなぁ」と声をかけるお遊びをやっていたそうだ。既にパンチョス、 ディアマンテスを耳にしていた人“かれらほどではないが出色”と書き残している。レキントを使っていたとはもちろんかいていない。59年のパンチョス来日までレキントという言葉を誰も知らなかったのだから。話をもとに戻して、パンチョスのLPを強力に日本へプッシュしたのはメヒコ・コロンビアだとオルティス・ラモスもアドリアーナ・ロドリーゲスもいう。そのヒットにより前者は日本には類似の東京パンチョスや大阪パンチョスが誕生しロドリゲスはシャウ・モレノ時代にパンチョスは訪日したとしている。だが事実誤認は致し方ない。大阪パンチョスは確認していないが東京パンチョスはマンボ全盛期活動したラテンバンドで名前はもちろん例のトリオに発している。シャウ・モレ-ノも歌いこそしなかったがパンチョスの御供をして来日したことがあった。これらのことを知ったら東京パンチョスというトリオが存在したりシャウ・モレノ期パンチョスが東洋の国を訪れたと考えるのは自然である。
だがLPをプッシュしたのはアメリカ・コロンビアであって、メヒコではない。メヒコ・コロンビアがシャウ・モレ-ノ期に乗り気でなかったことは今までに書いたとうりである。逆にベスト・セラーズこそアメリカ・コロンビアの自身作だった。ロドリゲス期は最初の25センチLPこそ出したが30センチ盤は出さなかったのにベスト・セラーズにはこだわり、アビレス、ロドリゲス時代ので水増しして30センチ化したほどだった(そのまま日本でも出された)。いっぽうメヒコではシャウ・モレーノ期のベサメ・ムーチョは30センチLPで登場することは決してなかったのである。
註・1)ほんとうにパンチョスは脱帽した。59年初来日して彼女とベサメ・ムーチョのことを彼らは知るのだが、彼女は前年に交通事故で他界していた。そこで12月24・25日の大阪公演の時、同地のその菩提寺に詣でたのだった。
(註・2)東京キューバン・ボーイズが前称エスクァイア・キューバン・ボーイズのなでNHKにデビューしたのが49年1月、フルートはバンドネオンで代用。その奏者はティピカ東京の指揮者早川真平だった。キューバンのマエストロ見砂直照もティピカ東京のベース奏者に発した。
註・3)音だけなら、つまりレコードなら戦前にジョニイ・ロドリゲス・トリオの一曲が出ていた。
以上、 谷川 越二 さんより頂いた原稿にて作成
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