1 Chucho Navarro
数代にわたるトリオ ロス パンチョスの初代三人の生い立ちから書き起こすのが順当だろう。けれども三人の誰から。
それはトリオの屋台骨であり、一番長くこのトリオにあったチューチョ・ナバーロからでなくてはならない。人にはそれぞれ愛称がついてまわるものである。そのひとつはその人の特徴による後発性のものー ゴルディート=でぶチャンとかスルド⇔ぎっちょとかー、もうひとつは名がついた時点からの規則的な花子:おはなチャンのたぐい。チュ-チョは後者でヘススの愛称で、およそヘスス君は名をもらってこのかたチューチョ(更に愛称化してチュチートとも)もしくはヘスーシートなのである。ヘススはアクセントに長音符をあてるならへスース・イエス、(英語ジーサズ)のスペイン語名、そして我らの主人公のフルネームはヘスス・ナバーロ・モレーノ(よりくわしくはこのあとにナニガシ・ダレソレと続く)で、ナバーロは父の姓名、モレーノは母の姓名である。このように父母の姓を並べるのが戸籍の正称でナニガシ・ダレソレとは祖父母など先祖の姓である。このように父母が離婚したらば...もうよそう、本題が遠くなる。チューチョ(これからこのなじみ深い名で記そう)は、ホセ・ナバーロとシルベストレ・モレーノの間に生まれた。この夫妻は子沢山で、設けた子は十人、チューチョはおそらく下から一番目、つまり末っ子である。父はカルロス・ボルベール製錬所の旋盤チーフで、主に鉄道部品を扱っていた。結婚前もしくは当初にはミチョアカン州モレーリアで美術教師をしていたともいい、そうだとすると大変な職業転換である。その名はホセ,ローマ聖教つまりキリスト教のヨセフだが、要はローマ神話の森の神シルバーノに発するシルベスト(野育ち)、ハリスコ州ラーゴス・デ・モレーノの出身だった。
チューチョは1913(大正2)年1月20日、母の生地から南西へ100キロほどのグアナファト州イラプアートで生まれたが、かれがみっつの時に一家は逆に北西方向アグアスカリエンテス州首都アグアスカリエンテスに移ってしまったからチューチョは同市を生れ故郷と慕っていた。だから父が務めていたという工場もこちらのことかも知れない。アグアスカリエンテスとは“熱い水”つまり湯のことで、熱海や別府を想像されては困るがその名のとうり温泉地としてしられている。それよりも同市のサン・マルコス広場で年一回開催されるフェリア(フェアー、祭り) 全国的に有名で歌にも歌われている(ペレア・デ・ガージョス:闘鶏)初等教育は。アグアスカリエンテスでうけた。メヒコの教育制度は1917に制定された、いわゆる17年憲法にもとずくもので小学校は6年間、これは完全に非宗教なのでチューチョは別個に厳格な宗教教育を或る司祭から受けた。年端も行かぬ内に父が他界したので一家の生計は母がフォンダを経営してまかなっていた。フォンダというのは大衆食堂、日本でいうと小料理屋がふさわしいだろう、酒もでる店である。小学校を卒業するとプレパラトリア、これは予備校のことだが日本のそれ、ましてや学生塾の類とはまったく違う。大学や商工業などの専門校に進むための過程で就学期間も五年と長く、中学と高校を混ぜ合わせてたようなものといえるだろう(もちろん中学・高校に進んでもよい。もっとも今は世の中も随分と変わったが昔は小学校もろくに行っていないのがたくさんいた)。
チューチョがどのようにしてギターを身につけたのかは分からないのだが少なくともプレパラトリアに通っていたころには弾いていたのではないだろうか。というのは姉のアントニアとの二重唱で、母のフォンダで歌い。常連客を悦ばせ、ついでに家計の足しになっていたからである。アンドレス・ウワステカといい、トリオ・タリアクリ、クワテス・カスティージャといい、どうしてこうも早熟なのか。
こうしてチューチョはメヒコ国立大学の薬学科に入学する。手元のテキストには国立大学としかないのだが当然通称UNAM(ウナム)メヒコ国立自治大学(ウニヘルシダー・ナシオナル・アウトーノマ・デ・メヒコ)だろう、もうひとつの国立大学はペレス・プラードがマンボの題材にした工科大学だから。1933年である。
薬学科の終身過程は四年間である。チューチョは成績優秀だった(と書いてあるテキストにふれたことはないが)がどうかは問わないが、とにかくとにかく修士にはなれなかった。原因はアルバイトである。母からの支送はあったけれども首都での生活は出費のかさむものである。だから彼は声とギターを生活の足しにしたのだった。どのようなつてによってかチューチョはXEB 局で週に一回だけの自分の、だがおよそとるに足らぬ番組を持つことが出来た。時には楽団の臨時ギター奏者を務める事もあった。いわゆるエキストラ、俗にいうトラである。
ある時、ラファエル・エルナンデスの楽団に加わったこともあった。プエルト・リコのこの偉大な音楽家が一旗揚げようとメヒコ入りしたのは1932年で(三ヶ月もいってみようとのつもりだったのに47年まで15年間も暮らしてしまう。だから「カチータ」始め彼の多くの曲はメヒコで作られている)、自身のバンドをひきいてことにXEBで人気をえていたのである。エルナンデス楽団に参加した時、チューチョはその正ギター奏者のプレイに接し、とても太刀打ちできない身をちいさくした。
彼を震え上がらせたそのギタリスタの名はアルフレード・ヒルといった。
やがてチューチョの番組も増えた。そんな彼に「トリオを組みたいのだがセカンドにならないか、と口をかけた男がいた。
フェリーペ・ヒル、彼を感嘆させたあのギター奏者の兄である。フェリーペは既にギターのカルロス・アルバレス・デ・ラ・カデーナ(アルバーロアンコーナともいう)と二重唱を組んでいたから拡大したわけである。1936年だった。
この年はチューチョには苦難の年だった。母が他界したのである。それでも彼は神経系統学に的を絞って勉学を続けていた。修士になるためにはインターンを務め上げればよいのだった(必修過程である)。
そんな時 ― 1939年 ― 彼に決定的なことが起きた。トリオにニューヨークのCBS(コロンビア・ブロードケスティング・システム)から口がかかったのだ。フェリーペは一も二もない。チューチョにも医学よりも音楽が勝った。先に修士にはなれかったと書いたが、それは " ならなかった " の意味も含んでいる。メヒコ医学界は医師をを一人失った。
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