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フェリ-ペ・“エル・チャーロ”・ヒルパンチョスにつれて記している本稿では狂言まわし役なのだが、後で書くことと重複するけれどもここでフェリーペ・(ボハリル)・ヒルについて述べておかねばならない。フェリーペ・フリアン・ボハリルとカルメン・ヒルの間には三人の男の子と三人の女の子があった。その長男フェリーペは1913(1910年とも)年2月5日ベラクルス州ミサントラ(エルマノス・ヒル,参照)に生まれた。長じて旅行エージェントに務めた(添乗員役か)ので、メヒコ市には、しばしば通っていた。弟のアルフレードと二重奏で稼いだりもした。そのような基日、XEW
局の話題の番組、「ラ・オーラ・デ・アフィシオナードスで運だめしをしてみた。直訳すれば愛好者たちの時間、この愛好者とはこの場合音楽のそれ、つまり素人のど自慢である。初回には優勝者をニューヨーク旅行にご招待との鳴りもの入りで1935年9月に始まったこの番組はメヒコの長寿番組のひとつで、カルメーラ・レイやトリオ・タマウリペーコなど多くのスターを育くんでいる権威のあるものだ。フェリーペはといえば、ものの見事に鐘ひとつだった。 |
それでも彼は新聞記者をしていたギター奏者のカルロス・アルバレス・デ・ラ・カデーナ(もしくはアルバーロ・アンコーナ)と二重唱を組み1936年にはXEB局で知り合ったチューチョ・ナバーロを加えてトリオとした。そしてこのトリオは39年にニューヨークへ渡る。このトリオの名はニューヨークへいった時からか、それとも結成時点からなのか、エル・チャーロヒル・イ・スス・カポラーレスといった。チャーロは牧童で、それに定冠詞のエルがついてフェリーペのことだが、彼も三男のチューチョ・ボハリル・ヒルと同じように父の性
ボハリルを使っていない。思えば彼がトリオを組んだ時には三男は叔父のグループ、マルチネス・ヒル兄弟に加入していた。カポラールは牧場頭のことで、それにス(彼の)がついているから、あとの二人を指し、牧場(主)と番頭どもという一家である。このようなおよそ憶えにくい名で、よくぞアメリカへ行ったものだ。 |
ところでトリオがニューヨークへ向かったのはCBS局出演のためだった。だがCBSが見ず知らずのグループを招くだろうか。一足先にNBCに出演していた叔父たちからの情報に触発されて、オレもと渡米しクラブなどに出ているうちに運よくラジオの仕事を得たのではなかろうか。それよりも可能性があるのはカルロスとカブロの紹介である。NBCにでている彼らがライバル局に自分たちを売り込むことは同義的にも出来ないから、CBSがメヒコのトリオを求めていると知っていとこのトリオを紹介したというシナリオが浮かんでくる。
1940年にトリオのギターはアルフレード・ヒルに替わった。兄弟がいっしょになったわけである。この時点でのギターはアルバレス・デ・ラ・ガデーナだったというが、彼がトリオ結成時からいたのか、そう書かれているもあり、結成時はアンコーナだったとするもありはっきりしない。40年はフェリーペにとって重要なな年である。CBSのラテンアメリカ番組には、Aテクサス州サン・アントニオでランチェロ歌手として人気者だった、とびっきりの@美女エバ・ガルサ(講釈師見てきたようなことを言いというが、私は少なくとも写真の彼女には接している)が出演していた。フェリーペとの間に恋が芽生え、二人は結婚したのだった。 |
41年ごろと思われる(というのは42年2月にトリオはCBSに復帰し、44年2月に解散するまでニューヨークを動かない、少なくとも米国内にあったから)がフェリーペは一時メヒコに戻っている。この時ほかの二人やエバ・ガルサも同行したのかどうかは分からない。フェリーペはマヌエル・M・ポンセ作もしくは編曲の「ア・ラ・オリージャ・デ・ウン・パルマール」を主題曲にした同題の映画に出演しているが、この一時帰国の時だったかも知れない。 |
一見したところは順風満帆のように見えるのだが実は四人の間には嵐が接近していた。つまり難破、つまり解散に至るのだが、その原因については芸能週刊誌なみにさまざまな説があるので、ここではそれを列挙するにとどめ判断はおまかせしよう。エバはアルフレードとチューチョを気嫌いしていたのでこの二人を追い出すことを結婚の条件にした/いつも同じギター伴奏に飽き限界を感じていたエバはフェリーペと二人で自由な伴奏で歌うのを望んだ/現状は維持するがフォームを変えようとするフェリーペにアルフレードが反対/反体制のアルフレードとチューチョは自主的に退団した。どうあろうとも二対二で、現状維持・形態改造にしてもフェリーペとエバの二重唱にアルフレードとチューチョは伴奏でしかない。二人はお払い箱になりフェーリペとエバはおしどりコンビを組んだ。46年のプエルト・リコの雑誌が彼らの訪島を報じているというのだが、フェリーペの死がトリオ解散の原因と伝えるもあり。と先走って書いてしまったがコンビ結成から程なくフェーリーペは他界するのである。その凶年や死因も明確ではない。寝煙草がひきおこした焼死だともいわれている。エバ・ガルサはメヒコに帰った。メヒコのコロンビア・レコードの発足は1947年だがその最初のレコードは彼女の盤だったという。47年といえば彼女の帰国の年なのですぐのレコーディングだったのだろう。だが専属ではなく40年代の内にビクターに録音、その後も米国と行き来し米シーコにも、レコードを残して66年アリゾナ州Tuxtonで死去した。 |
夫妻の間にはコリンナとファブリシオの二児があり、長じて二人ともバラーダ歌手になった。ことに弟のファブリシオンは父の名を受け継ぎフェリーペ・ヒルの名で1969年にSACMがミチョアカン州立大学と共催した作曲家ミゲール・デ・テハード生誕百年を記念するポピュラー曲コンクールに「カンタ」を出品したのをはじめバラーダの作曲面でも活動した。 |
@ コアウイラ州ビージャ・フォンターナ出身だ A同州とは大河リオ・ブラーボ(米名リオ・グランデ)をへだててはいるけれど米国の隣州。 |
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