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レキントの盟主、フェリーペの弟アルフレードは1915(大正4)年8月5日に生まれた。父はフェリーペ・フリアン・ボハリル,16歳の時にメヒコに移住したレバノン人である。1800年代だから正確にいうとレバノンという国はなく(1944年に独立)フランスの勢力下にあったはずで、彼の名もフイリップ・ジュリアンだったのかも知れない。この地方から世界各所へ出て行った人には商業人になった人が多いというが彼もその例にもれなかった。(なんの商売かは不明)。メヒコで妻に迎えたのがベラクルス娘のカルメン・ヒル、エルマノス・マルティネス・ヒルの項に述べたがオクタビオ、そしてパブロとカルロスは彼女の姉たちの子である。
さてアルフレードの生地だが一般にパブロやカルロス、兄のフェリーペ同じくベラクルス州ミサントラとされ、アルフレード自身もそう語っていた。だがメヒコ・コロンビアの資料にテサイトランTezaintolánとあるのを発見したプエルト・リコの研究家パブロ・マルシアル・オルティス・ラーモスがヒルに直接訊ねたところプエブラ州ティサントランTezaitlánと断言したそうだ。彼はふたとおりの書き方をしている(後のほうはンnがない)のだが、手元の地図にはその両方とも見当たらない。そのかわり(といってはいけないが、)ミサントラから南西へ道なき道を60キロほど登った所にテシウトランTeziutlánがある。そこから西へ10キロほど行けばプエブラ州になるベラクルス州領内だ。
生地がどうあれアルフレードはミサントラで初等教育(6年間)を終え州都ハラーパで3年間学んだ。小学校の上は中学校か、大学や職業専門校への予備校だが,父親は彼を理髪師につもりだったそうだから後者だろう。いずれにもせよそれから先は進学しなかった。だが9歳の時からギターを手にし、その上にマンドリンまで習得してしまった。ヒルはいう「ベラクルスじゃ犬まで歌が巧い」。兄にしても弟ヘスス(チューチョ)にしても歌手になったのはご承知のとうりで、ボハリル家もマルティネス家も音楽の血すじなのだろう。いやヒル家ゆずりか。なおアルフレードには兄弟のほかに三人の姉妹があったが音楽遺伝子は全部男どもに行ってしまったらしい。
クアテス・カスティ-ジャやアンドレス・ウエスカも早熟だったが、アルフレードも11歳の時にマンドリン奏者としてなにがしかの収入を得た。父の友人でガビーノ・エルナンデスという男がお父さんの許しはもらってあるからと彼をほの暗いランプの灯るバイレ(ダンスホール)に出演させたのである。ダンスの伴奏なのだから、きまりきったような曲を弾いていればよいのだし、誰も踊っていなければというのは、男が好みの女を見つけてフロアーに出てこない限り、フロアーに誰もいなし音楽も不要だから勝手な曲を弾いていてもよいのである。だが営業拘束時間は夜6時から朝6時までと長かった。ご想像もついたであろう。あのアグスティン・ララのデビュウーもまったく同じだったのが、バイレとかアカデミア(アカデミー)とかいっているけれど、ここへ来る男の目的はダンスではない。一応は踊って、その内好みの女を見つけたら、個室ですることは、組み合ってということではダンスと呼べないこともないのだが…。
いつかギターも覚えてしまい、メヒコ市などからギター弾きが来るとオレのほうがうまいと口にこそしないまでも自信を高め、父もこいつは床屋なんかよりも音楽家したほうがよさそうだと思うようになっていた。アルフレードのあだ名をエル・グエロというが、それはこのような幼時以来である。グエロとはアングロサクソン系の白人(それに多い金髪の持ち主も)のことだが、彼はひときわ肌が白かったのでそう呼ばれたのである。長じてのちもナバローと並ぶとその意味がよく分かる(もちろんこのグエロ氏はブロンドではない。典型的グエラのマリリン・モンローが破顔大笑していうだろう,あんたのどこがグエロなの)。                                                                
1932年、ハイティーンのアルフレードは兄に連れられてメヒコ市に出ると、そのまま居ついてしまった。兄の伴奏をして二重唱を組んだりしている内にそのギターの腕前は人の認めるところとなりいくつもの楽団に参加した。そのひとつが前述したKBC局に出ていたラファエル・エルナンデス楽団で、ナバーロとの初対面になった。1935年にフアン・S・ガリードが自身のダンス・バンドをひきいてXEW局に登場した時のギタリスタもアルフレードだった。ガリードはいう「彼は楽譜は読めないけれど、どんな曲でも弾けるといっていた」。このような合間にヒルはピアノを本格的にクラシック・ギターを習得した。〔楽譜が読めない〕とはヒルだけではなくメヒコやラテンアメリカの多くのミュージシャンが口にすることだが額面どうりに受けとってはいけない。オタマジャクシをギターなど楽器で奏することは出来るが口には出せない、つまり歌えない―ましてやドミソなどと階名でなどもってのほか―のも〔読めない〕に属するのである。
横道にそれた話を本筋に戻して―1934年にアルフレードは弟ヘスス(チューチョ)ともども叔父パブロとカルロスのマルチネス・ヒル兄弟に合流、XEW局などに出演した。だから楽団での仕事と両立させていた事になるギター教師もしたという。
それにエルマノス・マルティネス・ヒルはもともと二人だったのだし表立った仕事以外は四人揃ってなくてもよかったのかも知れない。その表立った仕事のひとつが38年のNBC出演でアルフレードはその一員としてニューヨークへ渡る。39年に兄フェリーペのトリオがCBS出演のためニューヨークへ来て、やがてアルフレードはそのトリオのギタリスタと交替する。カポラーレス在団中にヒルはサビーカス(アグスティン・カステジョン)に師事しフラメンコ・ギターの技法を身につけた。
このへんを整理するとあくまで想定だがこうなるのではないか。エルマノス・マルティネス・ヒルはニューヨークのあとブラジルなどを巡って帰国しているが、カポラーレスのギター奏者が抜けるのを知ってか、そのためにフエリーペに呼ばれてか帰国せずにニューヨークへ行きトリオの一員となる。いっぽうパブロとカルロスはメヒコでペペ・モラーレスをギタリスタとする。これらのことは40年に起こった。
こうしてアルフレードとチューチョ・ナバーロのいるエル・チャーロ・ヒルとそのカポラーレスは1944年2月まで続いた。スパニッシュ向けのクラブなど出演の場はいくらでもあった。
幻に終わった初代トリオ
ヒルもナバーロもしっぽを巻いてメヒコへ帰る気などまったくなかった。これまでの足取りから自分たちにはトリオの形が相性がいいとわかっていたし、自分たちの声質からトップ・ヴォイス探しが急務だった。それは案外早く見つかった。
女性である。これまでの経験から女声と合わせることには問題はなかったし、やってみると声もよく合った。だがこれは実現不可能だった。三人とも本気ではなかったはずだ。女が入ったトリオは彼女が結婚してしまえば解散というのが大方だが彼女の場合は結婚もなにも既に人妻だったのだから。ギター弾き語り歌手である夫と(おそらく観光目的で)ニューヨークに来ていたのである。その夫とは、1911年ミチョアカン州生まれで29年には放送界にデビュー、42年に「ラ・フェリア・デ・ラス・フローレス」を発表していた、我々は歌手(レコードを三枚残したそうだ)というより作曲家としておなじみのチューチョ(ヘスス)・モンヘである。
ホルヘ・ネグレーテの名唱「メヒコ・リンド」フアン・メンドーサの大ヒット「クレイ」も彼の作品だ。没年1964年。こうしてエルナンド・アビレスにめぐり逢うまで二人のトップ・ヴォイス探しは続く。
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