Hernando Avilés   4 Nacimiento del Panchos
舞台はここで偉大なゴーチェが“海の真珠”と呼んだ―と、あのラファエル・エルナンデスが詠じたープエルト・リコ島に移る。その首都サン・ファンの北、カリベ海上の島、旧サン・ファン島(いわゆるビエホ・サン・ファン)の西端に近いクリスト通りのサン・ホセ教会堂に近い16番地にマヌエル・アビレス・リベーラとグレゴリア・ネグローンの夫妻がすんでいた。
ホテルのコックをしているマヌエルの収入で暮らす、貧富を問うなら貧に属するこの夫婦には二人の男の子アンヘルとエルミニオがあり、アンヘル(1913〜1980)は建築家として名をはせた(註・1)エルミニオ、彼こそこの項のの主人公エルナンドである。つまりエルナンドはあまり芸名らしくないけれど芸名なのだ。(このことは後で記す(註・2)誕生日は1914(大正3)年2月1日、ヒル, ナバーロー, アビレスは一歳違いのほぼ同年輩ということになる。
エルナンドがまだ幼いころに一家は本島の、日本式に言えばサントゥルセ区トラス・タジャーレス町に移った。生活が向上したわけわけでなく、米海軍空港に近いこのあたりはサンファンでも最も疎外されたあたりだった。いささか神経過敏で、うとまれれば鉄拳で返答するエルナンドはいつしか歌で気をまぎわらせることを覚えた。サントゥルセの公立学校に通ったが、学校祭などの行事では必ず歌わされ、やがてギターも身につけた。
彼の音楽界へデビューは1932年にホセとアルベルトのボルゴ(もしくはボルゴス)兄弟とトリオを組むことで果たされた。トリオ・アンティジャーノ(アンティル海三重唱)と壮大な名を持つこのトリオは当時の流行曲、ことにグティ・カルデナスの曲をレパートリーにして・WKAQ局に出ることも出来た。カッコ内に三重唱としたが、それはトリオを日本語にしただけで当時のプエリト・リコでは二重唱+ギターだったはずだ。このトリオは二年後に仲間割れではなく解散した。原因は、このことは生涯つきまとうのだがエルナンドの病弱体質である。この時はチフスの上に腹膜炎を併発して歌うどころではなかった。
回復したエルナンドが1934年にカルロス・アルファーロ、ペピート・マドゥーロと組んだのは、トリオ・ロス・ガウチョスだった。ガウチョは南米の草原に暮らす牧童のことで、ブラジルではガウショと呼ぶ、つまり各地に存在するのだが、ガウチョといえばまっさきに連想されるのはアルゼンチンである。アルゼンチン、タンゴとガウチョ、パンパの国。ロス・ガウチョスのレパートリーに草原(パンパ)の音楽チャカレーラや山向こうの国チレーのクエーカにも含まれていたがメインにしたのはタンゴ、それも当時のプエルト・リコで大変な人気だった。だから神とまで崇められるガルデルが35年に不遇な事故死した時はエルナンドはガルデル・メロデイを歌っていたわけだがパンチョス入団は二期時代までそれをレコーディングしなかった(アルビーノ時代にはLP一枚まるまるあるのに)。
ロス・ガウチョスは1937年まで続いたが、その間にアビレスはちょとしたアルバイトもやった。35年にウエストインディーズ・アドバーティシングという広告会社が催したドミニカやキューバへのツアーがそれで、同社が雇ったバンドで歌った。ディナーとかダンスタイムでのことだろうがアビレスの初の国外巡演である。そしてこれはガウチョス解散後の39年のことだが、以前ラファエル・エルナンデスのトリオ・ボリンケンにいたアントニオ・メーサが島内巡演をした時にはその伴奏グループでトップ・ギターを務めた。パンチョスのトップ・ボイスのギターの腕前はおよそ評価されることはないけれどもアビレスは優れたギタリストでもあった。しかし彼は歌に尊心するためにギターを弾きたがらなかった。
ところでオルティス・ラーモスはアビレスが自叙伝のようなものを書いていたという。いつ書かれたのか記載されていないタイプ打ちだそうだから公刊図書ではなかったのだろうがそれによるとアビレスは1939年にベネズエラへ渡り、ラディオ・カラカスに出演した。地方巡業や国外公演にはアゴアシ代持ちと俗にいうシステムがある。顎(食費だが主に宿泊費)足(交通費)を招聘側が全部負担することだが、このカラカス行きはアビレス持ちだったのではないか。アビレスの本名がエルミニオだったいうには、やはりプエルト・リコの研究家エドナ・アブルーニャ・ロドリゲスの書いていることで出所は同じだろう。《1940年にパルケ・セントラル(中央公園)の正面にある北アメリカ人が常客のホテルで歌っていた時エルミニオをエルナンドに改めたと、アビレス自身が示唆している(書くとも言うともしていない)。そのころの彼はチコ・アビレスとしても知られていた》。このことは本文ではなく小文字で注記されているので筆者もどこかひっかかるものを感じていたのではないだろうか。アビレスが疑いもなくアゴアシ自分持ちでアメリカに行ったのは1940年である。手元のサン・ファンの地図にパラケ・セントラルは見当たらない。名が変わったのかもしれないが、それよりも筆者はどこの中央公園ともいっていない。これはニューヨーク・マンハッタンのセントラル・パークならずや。このあたりのホテルの常客が北米人であるのは当然だ。そしてチコは少年・坊やのことだが英語ではボーイよりもキッドにあたり、アステカ・キッドの名で活躍した芸人もあった。つまりアビレス・キッドである(やはり歌好きの東京キッドもいた?)。ここまでいえばこじつけめくがジョン・ウエイン扮するリンゴ・キッド大活躍する映画「駅馬車」が作られたのは1939年である。
ニューヨークに入って一週間、二人のエクアドル人歌手コルテスとメディーナを知ったアビレスはトリオを組んだ。このトリオが実際に活動したのかどうかは疑問があるのだけれども、その名をラス・トレス・ギターラスという。ラス・トレス・ギターラスといえばアンソニア・レコードに10枚以上のLPを残したエクアドルの名門トリオだ。カルロス・バジャドリーが34年に結成したトリオが母体で当時はロス・インカスを名乗っていた。ラス・トレス・ギターラスのレパートリーは決してエクアドル(やベネスエラ、コロンビア)の曲ばかりではなく、ボレロはじめプエルト・リコの曲も多かった。それを思うにつけ、そしてこのトリオのメンバーはバヤァドリーを除き何回も更替していることからもふたつのギターラスは本当はまったく関係ないが次のような筋書きも考えられないでもない― 一時期バジャドリーがインカスを離れ、オリジナルメンバーかどうかはさておき残った二人とアビレスが抜けた時にバジャドリーが復帰してリーダー格になったがトリオの名はギターラスを踏襲した。
1942年にアビレスはラス・トレス・ギターラスを辞めて、今度はメヒコ人のソテーロ・サン・ミゲルと組んだ。ドゥオを作るために退団したとするのがただしいらしい。メヒコの歌を歌いたくてということなのだが、ニューヨークだけでなくボストン、クリーブランド、シンシナテイなど他州の都市まで足を伸ばした、このドゥエット・アステーカというおどろおどろしい名の二人組は好評だった。といってもアステーカの王侯貴族の姿で舞台に立ったわけではない。チャーロ姿である。ロス・ガウチョスのころにタキシード姿をしていたとは思えないから、アビレスは北と南のカウボーイを演じたことになる。ニューヨークでブロードウエイの西側ブロンクスにある高名なスパニュシュ・ナイト・クラブ「エル・チーコ」に出演した時、やはりこの店でひんぱんに歌っていたロス・カポラーレスのギター奏者を知った。アビレス、アルフレード・ヒル、初の出会いである。だがその時はただそれだけだった。
1942年にアビレスはソロ歌手に転じた。このソロ歌手としての活動はパンチョス結成の日まで続く。ニューヨークだけではなくボストンやシカゴなど多くの都会を巡ったがバックの楽団はファニート・サナブリア楽団とかボビイ・キントーン楽団などのラテン・バンドで、一定していなかったし、これらの楽団はおそらくダンス・バンドのはず、ダンス・タイムの間のショウタイムでひとくさり歌う程度のものではなかったろうか。だがアビレスは一本立ちしたしょっぱなからレコーディングしている。リチャード・K・スプッツウッドはレコードディングの詳細な資料を集めて「エスニック・ミュージック・オン・レコーズ」を著した人だが、オルティス・ラモスも同書からアビレスのレコーディングを抽出している。それによると次のようになる。1942年1月27日デッカニルレータ(カセレス時代のパンチョスも録音)/ポル・ラ・ブェルタ(タンゴ)以下ティティ・アマーディオのグループとアマーディオの作品を(アルベルト・ロサーリオとドゥオ)ジャント・アマールゴ/ラベリント/エル・ネグロ・ペドロ・ファン2月20日デッカ=エル・ウルティモ・アディオス/ウン・ディア/オルビーダメ/デスペディーダ。6月5日ビクター=デハメ・ソニャール/ベン、テ・キエロ・ベールテ/テンゴ・ケ・アマール/またまたタンゴでエン・ウン・ベーソ・ラ・ビーダ6月30日ビクター=ジャント・デ・ルーナ/ジョ・キエロ・デシールテ・アディオス/ケ・パソー
カポラーレス解消のあとヒルとナバーロはグループやバンドの臨時用員(ユネストラ)などをしながらトップヴォイス探しを続けていた。そんな二人がアビレスにめぐり合ったのはニューヨーク 7 アベニュー51 ストリートの交差点にある服店に服の見立てに行って店を出た時だった。それ以前にとあるパーテイでヒルとナバーロはアビレスとたまたま同席し即興で「シン・バンデーラ」を歌ったのが初対面だという説があるのだが信じ難い。クリーブランドへの旅興業から帰ってきたアビレスは偶然訪れたコロンビア社のスタジオでカポラーレスと会ってヒルとナバーロからゴタゴタ話を聞かされた翌日例の服店の前でまたまた偶然二人に行きあったともいうが、これもか間尺にあわない。たしかなことは7番街51丁目の角で三人が遭遇したということで、アビレスは散歩中で二人のメヒコ人は店を出てきたところ、とは多くの資料の一致するところである。トリオを作らないかと持ちかけたのはもちろんヒルとナバーロである。そこから先は説が別れる。熱っぽく口説くヒルとナバーロにアビレスは一も二もなかったとも、どこか違うのではとためらったとも。どちらともいえない。ガブリエル・オリェール(この重要人物については後述する)は、メヒコの歌なんかイヤだというアビレスを二人が口説き落としたのだと証言する。しかしメヒコの歌がイヤならばドゥエット・アステーカを組むためにラス・トレス・ギターラスを脱けたのはどう説明できよう。アステーカ二重唱とは名ばかりで、人目を引くためにチャーロ服をまとっていても(この策戦は成功した)曲はボレロやタンゴばっかりだった。とにかくヒル、ナバーロ、アビレスは三人一組になった。
註・1.プロにはならなかったが、いとこのクルス・ネグローンはアマチュア・トリオの一員としてラジオ出演したことがあるから、音楽は母方の血すじということか。(註・2.おそらくエルミニオ・エルナンドという、決して珍しくないふたつの重ね名(ファン・カルロス・ミゲール・アンヘルなど)だったのだろう。
  Nacimiento del Panchos
練習また練習の明け暮れだった。その合間にもトリオの名をどうしょうか、三人は話し合った。笑い話にすぎないがトリオ・ナビヒルというのがあった。これは判じものでクイズにでもしたいとこだが答えをいってしまうとナバーロのナ、アビレスのビ、あとはいうまでもなし。こんなワケのわからない名では、とすぐ立ち消えになってしまったのだが、創設者三人の性をを組み合わせたダットサン(メヒコをはじめラテンアメリカではダツンと発音)のように広く知られた名もあるから一概にはいえまい。ことばに出してみるとアビール(有名な、器用な)と聞こえなくもない。トリオ・ロス・パンチョスという名称の発案者がヒルであることはアビレスも証言している。パンチョはフランシスコの愛称だが、このトリオに在団した人の中にフランシスコひいてはパンチョは一人もなかったことはしばしば指摘されれることである。そうなずけた理由は後まわしとして、こんないきさつがあったとする説もある― ― 三人は練習の息つぎにスパニシュが常連のナイトクラブに足を運んだものだった。ヒルは「バナナ・マドリード」や「エル・チーコ」にいつも出ているチレ出身のある芸人に目をとめた。チレ人であるけれどもチャーロの衣服、飾りたっぷりのソンブレーロ、もちろんまがいものだが二丁拳銃をさしたガンベルトのいで立ちで登場する彼は、天井に向けて銃音を響かせ、ご婦人がたには投げキッスとウインク、やがて歌い出すのはハリウッド入りしクラブ出演でも大モテだったティト・ギサルの節回しをたっぷり誇張した「アジャ・エン・エル・ランチョ・グランデ」。その芸人名をパンチョ・ビージャといった。ヒルはこんな国辱的な寄席芸人にしっぺ返しをしてくれようと考えた。これがパンチョス発想の伏線である....。
それはさておき名のもとがパンチョ・ビージャ、ただし本当のパンチョ・ビージャにあったことは事実である。メヒコ革命戦争の雄パンチョ・ビージャ(1877〜1925暗殺)は志ならず本拠地チウァウァに身を退いたのちももとはといえばメヒコの領土であったニューメクシコ州やテクサス州に侵攻してアメリカ人を振るいあがらせた。メヒコ人にとってはロビン・フッドのような存在だが賞金5千ドルの指名手配ポスターが残されているし、サイレント時代から何度となく映画の主人公にもなった(ハリウッドが作るのだから善人であるわけがない)こんなわけでアメリカで最も有名なメクシカンはパンチョ・ビージャであり、パンチョといえばメクシカンと同意語なのだった。ロス・パンチョスとはザ・メクシカンズにほかならない。彼らがアメリカにいたからこそ湧いた発想である。メヒコでは性を名乗ることはあっても(例えばロス・モンテーホ、ロス・マガーニャ)名を用いることはない。アルゼンチンにロス・フェルナンドス(註・1)というボレロ・トリオがあったと記憶する。なおパンチョス・なにがしと名乗るアーティストも少なくてランチェロ歌手のパンチョ・アビティアとパンチョ・パンテーラぐらいしか思いつかない。後者は胃もたれの水溶錠剤薬などを扱っているピコット社のキャラクター男女パンチョとパンテーラからの借用である。
パンチョスがいかにメヒコひいてはラテンアメリカを連想させるか、ひとつの例をあげておこう。アメリカにもアメリカ人向けのラテン音楽放送番組があるのだが、その初代DJはアート“パンチョ”レイモンドだった。つけ加えておくと二人目は、こちらの方が人気があったそうだが、こちらもスペイン名を挿入したディツク“リカルド”シュガーだった(リカルドは英名ならリチャード)。ドン・リカルドの番組は「チコ・チコ(正確にはチコ・チコ・ノ・フバー)」によることはいうまでもない。この楽しい曲はラテン専門のレコード・レーベル名にもなった。それからは50年代の出来ごとだが30年代(少なくとも39年)のニューヨークにPancho'sタンゴ・グループなるものがあったらしい。後に出てくるがアルゼンチンのフランシスコ・カナーロがキンテート・ドン・パンチョ(のちにキンテート・ピリンチョと改称)を作るのは37年で年代上は合うのだけれどこちらはレコーディング専門だからまったく関係ない。
蛇足に流れたが、ヒルにいわせると「メヒコを連想させる名前を三人で考えた。そこで思いに浮かんだのはフランシスコ・マデーロ、パンチョ・ビージャ、パンチョ・ピストーラ、いずれもパンチョだった。」マデーロは1873〜1913)革命戦争初期に暗殺された愛国家の大統領ドン・パンチョと慕われている。ドン・パンチョと名乗るラテン・バンドのリーダーもいた、タンゴのフランシスコ・カナーロもその初期の五重奏団をキンテート・ドン・パンチョとした。パンチョ・ピストルはそのころのディズニー映画(かTV)で活躍したヒヨコのキャラクターだそうだ。現物(現鳥)は見たことはないがとにかくヒル様のおっしゃることである。ディズニー作品には「サルードス・アミーゴス」「スリー・キャバリェーロス(カバジェーロス)」などラテンアメリカを舞台にした短編アニメがあるが、そのようなひとつだろう。拳銃パンチョという名前からパンチョ・ビージャからでた発想だろう。それにしてもドン・アルフレード、あなたまでが後年自分でパンチョ・ピストレーロ(ガンマン)役を務めることはなかったのでは...。
パンチョスの名が発生したのは、当時彼らが宿泊していた6番街8丁目のホテル・マリイランドの一室だったとメヒコの「エル・ディスコ」誌で見たが、その記事は誤りも多いので信ぴょう性はうすい。もうひとつ、CBSのディレクターもしていたコロンビア・レコードのラテン部門担当者が彼らを専属に迎えた時にメヒカーノを連想させる名として発案したと唱える人も何人かあるそうだがまったく妥当性に欠ける。これだけの名なのだから「実は」と言い出す人が多くて当然、その意味でつけ加えておいた。
註・1フェルナンデスなら姓、フェルナンドは名。
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