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(青字は私の書き込み) | |||
ロス・パンチョスはシャトウ・マドリード、エル・チーコなどクラブ出演を続けていたし、フアン・S・ガリードもホテル・ピエーレで彼らを聞いたこと、放送番組「ビーバ・アメリカ」でも人気だったことを「メヒコ・ポピュラー音楽史」に記している。 彼らはエドムンド・チェスターという人の仲介でCBS放送のカデーナス・デ・アメリカスとの契約を得る。カデーナとは鎖だから、アメリカス―アメリカ州の各所―をつなぐものという番組名と解釈されることが多いが、これはNHKのFEN(ファ・イースト・ネット・ワーク)とおなじでスペイン語(ポルトガル語も)放送のことである。この場合のガデーナ(チェーン)は東京の地下鉄の車内地図にもあるメトロネットワークのネット、もしくはチェーン・ストアのそれと同意である。そしてFENが日本国内でも聴取できるようにガーデナス・デ・アメリカスはアメリカ州各地にもとどいた(ほかにNHKもしているが外国向け放送も別にあっただろ)。パンチョスの出演番組で、つとに知られるのが「 ビーバ(ばんざい)、・アメリカ」」だった。そしてCBSの短波局WWRLにも出た。 |
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このようにしてパンチョスはCBSとの関係の深いコロンビア・レコードと契約を結ぶことになるのだが、その過程にあってカデーナス・デ・アメリカスのディレクターをしていた音楽家テリグ・トゥチの役割が大きかった。彼はニューヨークで活動していたから、母国アルゼンチンでは知る人ぞ知るの存在だが映画出演のためアメリカへ来ていたあのカルロス・ガルデルの最終録音―その帰途彼は1935年6月24日メデジン空港(コロンビア)を飛び立ち永遠の空へ去ってしまった―ミ・ブエノス・アイレス・ケリード、エル・ディア・ケメ・キエラスなどのオーケストレーションをした人である。パンチョスは彼の指導のもとで完全なハーモニーと発声法をたたきこまれたし、南米の音楽を知った。パイロトーンに録音したデスデ・ケ・テ・フィステはトゥチ作のパシ‐ジョ(コロンビアの6/8拍子形式)である。パイロトーンでの録音で使用していたのかも知れないのだが46年から始まったコロンビアでのレコーディングでヒルはレキントを使い始める。 | |||
兵営にあってこのぐーたら兵士はパンチョスのギター・サウンドをどうするれば向上させられるかに思いをめぐらせるばかりだったのだから、兵士としてはおよそ役立たずのぐーたらであったろう。コーラスの高音テノールに対応する音としては、逆に低音も考えられないでもないが、それではやはり重くなってテノールが浮き上がってしまう。高音はそれにふさわしい高音で飾らねばならない。そこでヒルはエルマノス・マルティネス・ヒルにあった時からセヒージャ(カポタスト)(a)を用いて音を高めていた。それで目的は達せられたのだが当然ディアパソン(指板)の面積が狭くなり、技術を十二分に活用できない。 | |||
ならば、ギター全体を小型化してはどうか。このような小型ギターへの挑戦はきのうきょうに始まったことではない。19世紀の始めにウィーンでテルツ・チターラが開発されていた。ラテンアメリカ各所にもヨーロッパのギター属に発したキューバのトレス、プエルト・リコのクワトロ、ヒルの故郷ベラクルスのレキント(ヒル型のが有名になってしまったのでレキント・ハローチョと断りがされている)などがあり、インディオもアルマディージョ(よろいネズミのこうらを利用してメヒコではギターラ・デ・コンチャ、アンデス地方ではチャランゴをこしらえた。それらの生成過程に言及する余白もない(より正確にいえば、知識が足りない)。 | |||
もとよりヒルはレキント(・ハローチョ)を知っていたが、それは彼の理想音ではなかった。バイオリンをピチカートで演ずる(弓で奏でるのではなく、爪ではじいて単音を出す)音に近いものを求めていた。復弦も試してみた。話は飛ぶが1959年パンチョス初来日の時、ヒルのレキントを正確に計測、日本製レキント第一号を製作した(二回目の日本公演で使用)名工中出阪蔵は弦止めにいくつも穴があいていたと証言している。弦を通す(複弦にする)以外に何の役にたつだろう。(b) | |||
コーダやシーコでの録音と前後してか、ヒルは遂にセンテ・タタイを訪ね、このようなギターを作ってほしいと依頼する。いいとも、最良の木材でとタタイは気易く製作を承知したのだが疑ってもいた。しょせんはギターの小型化、付属して音も高くなる、だがそれがどうだとういうのだ。だがタタイは出来ぐあいに大満足のヒルが早速弦を張り弾くのを耳にして驚ろくことになる。なんとヒルは普通のギターのようにどよみなく弾くではないか、そしてその張りのある輝かしい音...。テルツ・チターラもそうだが小型ギターは、ギターの配弦は第一弦(ギターを抱えた時に一番下側になる糸)から順にミ・シ・ソ...になるのに対しファ、レ、シとなったりして、ギターの奏法そのままでは弾けないで、それなりの弾きかたをしなければならない。だがこの新顔はギターを5セヒージャ(フレット。弦棹に配してあるカンどころの横棒)分音を上げた配弦になっているからギター奏法がそのまま通用するのだ。例えばギターのC(ハ長調)と同じ手の構えでレキントを押さえると自動的にF(ファ長調)の音になる。ン千万円グラスで王侯と飲もうと場末の酒場で安月給の同僚と飲もうと酒は酒飲みかたは同じでストローで飲む人はない。だけれどヒルが案出したこの新楽器の特徴はそれだけではなかった。レキントとはギターをひと廻りちいさくした楽器と私も言って来た。いや言いだしぺは私かも知れない(死罪)。ほかに説明のしようがなかったからだが、これは間違いである。たしかに彼はギターの寸法をつめた、見てのとうりである。(d)それ全長を小さく、ひいてはセージャとセヒージャの間隔も指使いに支障がない範囲で当然弦も強く張られて高音を得た。だが彼はひとつだけギターと同じに残したことである。このことはウクレレを思い浮かべればおわかりになるだろう、あの胴では深みのある音は出せない。彼はギターに出来る限り近い響きを残すことに成功した。 | |||
その奏法においてサム・ピック(親指にはめるピック)を導入したのもヒルだというが、これはどうだろう。それをいうなら人差指・中指の交互弾弦とサム・ピックをはめた親指とをともに用いたというべきだろう。サム・ピックはもともとかき鳴らしの音を増強するためのものであって、単音を弾くためではなかった。レキント・ハローチョでも牛の角で作ったピックが使用され、それも含めて平型のピックは三本の指ではさみ持たねばならない、つまりバチを持つのと同じでで、人差指と中指の交互弾弦は不可能なのだ。(c) | |||
ナイロン弦の開発もヒルにとってプラスだったともいうがこれもおかしい。長持ちしないし狂いやすいそれまでまれに牛のも使われたが羊の腸で作るのだったが、ガット弦に替わるナイロン弦の登場はあらゆるギタリスタに画期的なことだったが、46年のヒルがナイロン弦を知っていたはずがない。ガットに替わるものをとアルバート・オーガスチンと研究していたアンドレス・セゴビアがナイロンの開発社デュポンの釣り糸に着目したのが46年暮である。その成果が世に出せたのは翌47年だった。(同年の内に市販された)(註1)独占企業にしなかったオーガスチンは偉い。 | |||
註1 現在の黒レーベル(黒袋入り)が半世紀過ぎて材質は向上したが往時の規格のままだそうな。 | |||
ヒルは最初からそれをレキントと呼んでいたわけではなく、いつの間にかそうなってしまったらしい。はじめタタと呼んでいたともいうが、これはタタイのことだろう。タタには幼児語として“お姉チャン”の意味もあるのだが、メヒコではむしろ“おじいチャン”であることはタタ・ナーチョ(・イグナシオ・エスペロン)でおなじみ、彼の場合はナウア(アステーカ)語に由来する。レキントということばは、レキンタール(五音上げ(下げ)るに由来する。上げるならミ・ファ・ソ・ラ・シだ。しかしヒルのレキントは1弦はラである。ならばクアルテローラとすべきではないのか、このことに戸惑う人が多い。だが答えは簡単だ。彼は五音上げたのではなく五フレット上げたのである。従って一弦からラ・ミ・シ・ソ・レ・ラ、こんなわけで創案中の彼はレキント・コレート(レキント(第5フレットめの身体)と呼んでいたらしい。ヒルはこの楽器にパテントをとらなかった。それは不可能である。オリジナルと寸分たがわぬ作品であればあり得ないことではあるが...。 | |||
書道家 藤波 氏 愛用の中出 阪蔵氏 製作レキント・ギター | |||
(b) 1964年製 Requinto Guitarra | (d) L / Requinto・R / Guitarra | 1960製 Guitarra | |
64年製 Requinto 中出 阪蔵氏サイン | (a) カポタスト・ ( c )サム ピック(下) |
60年製 Guitarra 中出 阪蔵氏 | |
レキント・ギター/セグンド・ギター いずれも素晴らしい音質ロス・パンチョス日本録音の音がする ご協力いただいた 藤波さんに感謝。 |
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