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                                          (青字は私の書き込み
コロンビア・レコードでの録音が始まる。それが向月かはわからないが1971年3月に彼らが(コロンビアとの契約)25周年記念コンサートを開催しているから46年3月ごろのことかも知れない。その年の録音曲はオルティス・ラモスによれば、次のようになる。なお以下の曲目の順 序は本書の結びに至るまで言えることだが、決して録音順ではない。◆ ペレア・デ・ガージョス/アグアスカリエンテス州の同名の主都はその名(熱い水湯)のとおり温泉地だが草津や別府を想像してはならない。だから観光客は足を向けることもないが年に一度のフェリア(フェア)は伝統的でメヒコ各所から人が集まる。その呼びものサン・マルコス広場での闘鶏を活写したファン・S・ガリード作のこの曲はおよそ後年のパンチョスのイメージそぐわない曲だがコロンビアでの最初の録音曲だともいう。ガリードは少し前にニューヨークで彼らに会っているから、その時に紹介したのだろう。ちなみに楽譜出版年は45年、できたてほやほやだったことになる。そして今にして思う、ナバーロとヒルの声の若々しさ(テイクオフ社がCDで再版して下さったことに感謝)。◆カンタ・モレナ/チャーロ・ヒル作◆チョン、チョン、チョン/当時ニューヨークにいたキューバのバンド・リーダーで作曲も多いマルセリーノ・ゲーラのソン.◆マルディシオン/レオポルド・ゴンサーレス作ボレロ.後に出てくるエントレ・シルベリオ−ともどもトランペットが入るが、CBS放送のスタジオ・オーケストラ、指揮はテリグ・トゥシらしい。このあとにもグアラーチャ系の曲やレクエルドス・デ・ティのようにボレロにもトランペットが入るのは、ダンスにも向くようにとの狙いだそうな。◆ラ・マカレーナ/後年ペレス・プラードがマンボにしたパソドブレ、ビルヘン・デ・ラ・マカレーナだろう。アルビーノ時代に録音した。46年タイロン・パワー主演の映画「血と砂」に使われたから当時のヒット曲だったのだろう。古くからの曲と思うなだが、バウティスタ・モンテルデ作として46年に出版されている。
◆エントレ・シルベリオ・ファクンド・イ・ラ・ルーナ/とにかく長い題名なので( 1)エントレ(この場合は“間柄は”略される事が多く、日本盤にはエントレ・シルベリオなんていうのもあった。シルベリオとクァンドと月のことで町じゅうが噂ばっかりになっている状況を歌ったキューバのロス・グアラチェーロス・デ・オリエンテのリーダーだった名ソネーロ、ニコ・サーキートの作品で一種のパロディ。シルベリオはメヒコの伝説的闘牛士シルベリオ・ペレス、だが彼は正闘牛士としては国外に出たことがないからニコ・サキートがここに画いたのはアグスチン・ラーラの43年作品「シルベリオ」を通してであって、そのメロディや詩の断片も出てくる。怠け者のファクンドは「ファクンド」から、恋しているお月様は「ラ・ルーナ・エナモラーダ」( 2)から、いずれもキューバで愛されてきた曲である。メヒコでは48年8月12日に、キューバから来ていたトリオ・ウルキーナが録音した。パンチョスはマルディシオン(前出)ともに楽団にまかせきり、まったく声だけでギターもサボっている珍しい一品。◆アウンケ・ロ・キェラン・オ・ノ/コルターサルとエスペロンの名コンビがこのランチェラをホルヘ・ネグレーテ主演の映画のために書いたのは1946年、つまり当時の新曲だった。ネグレーテ盤ではマリアッチ・バルガス・デ・テカリトランといっしよにトリオ・カラベーラスが加わっている。
1.正確にはファクンドとイの間にカルメーロが入るはずで、64年パラグァジョス来日の時には司会の私がこの長ったらしい題をすらすらいえるかどうか面白がって顔をのぞきこむのに閉口した(なんの.これしき)。 2.スペインのバジェーホ作
さてご両人の作品である。◆エル・パハリート/ヒル,ソン・ハローチョ◆コーサス・ケ・パーサン/ナバーロ、ウアパンゴ◆ミ・プエブリート/ナバーロ,ウアパンゴ◆プロ・コ・トン/同、同◆ポル・エスージャス/同、コリード・ウアパンゴ/アキー・ベンゴ・ジョ/同、同そして◆ペルディーダ/同、ボレロ これが当たりに当たった。そして次の録音へと続く。47年である。◆メ・ボイ・パル・プェルボ/メルセーデス・バルデス作グアヒーラ。いつごろからかパンチョス・ショウの終了テーマになった。パラグアイのアルパ奏者ディグノ・ガルシアとカリオスも同じことをしていたが、たしかにフィナーレにはうってつけの曲ではある。メルセデス・バルデスはマルセリーノ・ゲーラ夫人で、パンチョスはゲーラの招介でこの曲を知った。ベニイ・モレーがこの曲を知った。ベニイ・モレーがこの曲をメヒコで録音したのは47年4月5日◆ヌエストロ・アモール ラファエル・ラミーレス作ボレロ。パンチョス・メロディのひとつになった。◆ラ・プルガ/レオポルド・ゴンザーレス作グアラーチャ◆ソーロ/ヒル作ボレロ◆ジャ・エス・ムイ・タルデ/同、同◆ノ・トラーテス・メンティール/同、同。アブルーニャ・ロドリーゲスはこれと次の曲が初録音の曲だとしている。◆ウナ・コパ・マス/ナバーロ作ボレロ。当時ナバーロにはアイルランド人の飲み友達がいた。女性である。そして、これでお開きにしようという時、彼女は「ウナ・コーパ・マス(もう一杯、ね)」というのが常だった。つまり「あと一杯でおしまいにしましょう」のいいかえである。彼女が帰国する前の夜もそうだった。彼は彼女を偲び、テーマをひとひねりしてこの曲を作った。以上ナバーロ自身による説。このあとでパンチョスは初の国外公演にベネスエラへと旅立った。ベネスエラでも彼らの歌声が聞かれていたということだが、メヒコもプエルト・リコも素通りしてしまったことになる。ニューヨークへ戻ると、次の録音にとりかかった。 
◆キエン・マトー・ア・コンスエーロ/ホセ・レイナ作グアラーチャ◆アプリエータ・エル・パーソ/マルセリーノ・ゲーラ作ルンバ◆カラメリート/メルセーデス・ゲーラ作プレゴン(ソン)、実際にはゲーラ夫妻の共作だろう。◆メ・カスティーガ・ディオス/ヒル作ボレロ◆ハイ、ハイ、ハイ/ナバーロ作グアラーチャ◆レホス・デ・ボリンケン/ナバーロ作ボレロ。当時のナバーロはまだボリンケン(プエルト・リコ)へは行っていない。だが、イースト・ハーレムに居住するボリンカーノ ―第2次大戦のあと急増した― の日常を知る彼(そこで発行されるスペイン語の新聞にも目を通していた)をして、この曲を作らしめた。プエルト・リコを歌ったパンチョスの作品はほかにもあるが、これが第1作である。プエルト・リコのエル・エストラーダが作った「エン・ミ・ビエホ・サン・ファン」には及ばないがベーガ・バーハのこのトリオは41年にニューヨークをビクターに録音するため訪れ、パンチョスに会っているから既に録音ずみだったこの曲も紹介したのではないか。するとレーホス・デ・ボリンケンの火付け元はエン・ミ・ビエホ・サン・ファンのようにも思えてくる。
さて48年である。この年前半の録音には、彼らの自作曲は無い。
◆エル・グアラーポ/サボリーとポーソ作グアラーチャ◆パレーセ・ケ・バ・ジョベール/アントニオ・マータス作グアラーチャ◆カンサード・デ・ティ/メルセーデス・バルデス作ボレロ◆レクエルドス・デ・ティ/ローケ・カルバーホ作ボレロ◆
1948(昭23)年6月、パンチョスはサン・ファン経由でサン・パウロ(ブラジル)へ向かった。それが成功したのかどうかはテキストがないが、ここで彼らは素晴らしい土産を得る。47年にフランシスコ・アルヴェス(F・ヂ・モライス・アルヴエス)が録音して大当たりしていたエルベルト・マルチンス(H・ヂ・オリヴェイラ・マルチンス)作のサンバ・カンソン「カミニェモス」である。これはボレロにしても当たるとヒルは直感した。その読みが正しかったことは、パンチョス・メロデイのひとつとして長く君臨したことが証明している。それから彼らはサン・ファン入りするのだが、それは10月だったからブラジルからひとまずニューヨークへ戻ったのだろう。いずれにもせよアビレスにとっては里帰りだった。それも文字どうりの ―何故なら彼らはホテルではなく、アビレスの兄アンヘルの家に泊まったのだから。サントゥルセ「キー・クラブ」に出演するかたわらWAPP局のスタジオでエクトル・モーリ録音技師のもとパンチョスは歴史に残るボレロよっつをレコーディングした。◆カミネーモス/ブラジルで仕入れたカミニェーモスのブラジル語(ポルトガル語)の詩をほとんどそのままヒルがスペイン語に置き換えているが、パンチョス外国の曲を自国語化した第1作になった。スペイン語で歌う場合は、ほかの歌い手たちもヒルの訳詩を使っている。◆ノ・メ・キエラス・タント 前の年47年にプエルト・リコに帰っていたラファエル・エルナンデスがパンチョスのために作った曲。ヒルもナバーロも彼と旧交を暖かめたことだろう。「そんなに私を愛さないで」の題そのままに徹底した愛想づかしの内容だが、とかく好きだ好きだ、君なしには生きられないと迫るばかりの彼らに逆のことを歌わせてみようとの意図によるものだから例えばダニエル・サントスの「エルナンデス作品集」のような企画盤でもない限りほかの歌手はとりあげない。珍しいのはティト・ギサルでパンチョスに捧げて、つまりパンチョスのアレンジでトリオをバックに録音した。◆ラジート・デ・ルーナ/眠れる森にさしこむラジート・デ・ルナ月の光に似て君の瞳の光は…このロマンティクな曲は三人がニューヨークのホテルの一室にいた時にナバーロが作った。ナバーロのインスピレーションは恐ろしいほどのものだ。たしかに彼は部屋にさしこむ光にインスパイヤーされたのである。アビレスが述懐している「ユニオン・プレスの広告塔の光だぜ」。◆シン・ウン・アモール/ヒル(曲)ナバーロ(詩)になる唯一の作品。持ってまわったような詩なのだが当たった。メヒコでレコードが発売されるのは翌年になるのだが、その楽譜の表紙に「1949年のセンサシオン(センセーション)とあり、表紙にも中にもパンチョスの大ヒットと記されている。この曲で注意すべきは完全にトリオを意識して作られている(ラジート・デ・ルナにもいえるが、ソロで歌ってもまるで面白くない)ことで、のちのヒルもナバーロもこれほどの曲を作ってはいない。このレコーディングには、シーコから多くの曲を出しているプエルト・リコのセーサル・コンセプシオン楽団のリズム・セクションが参加している。
このレコーディングには、シーコから多くの曲を出しているプエルト・リコのセーサル・コンセプシオン楽団のリズム・セクションが参加している。ファン・バハーダス/ベース、ペポ・タラベーラ/ティンバレス、ジョー・バージェ/マラカス。彼はもともと歌手でありLP「エルナンデスを歌う」でノ・メ・キエラス・タントを歌った一人。パンチョスのレコーディングにベースやらタイコやらがつくようになるのは、この時から始まる。
彼らはひとまずニューヨークへ戻ると、メヒコへの帰国準備にとりかかった。結成このかたパンチョスがメヒコの地を踏んだことがないというのは不思議なことだが事実である。ましてカポラーレスのころも加えたら、まさしく浦島太郎だが、メヒコは彼らを待ちわびていた。
メヒコ・コロンビアは46年に誕生していたのだが、まことにぜいたくな運営危機にあったほどだった。当初その製造部門はプレス機10台に工員28名でスタートしたのだが、そのすべてがパンチョス盤にかかりっきりになるという事態まで生じのである。それほどに売れたのだ。メヒコじゅう生身のパンチョスを求めていた。アメリカ・コロンビアはパンチョスにどえらいプレゼントをした。ひとつはメヒコまでの旅に高級自動車を用意したことである。鉄道や飛行機のように相乗りではなく、彼らだけで過せるようにとの配慮だった。そしてもうひとつは彼らの契約を無条件でメヒコ・コロンビアにゆずったことである。このことは一見したところ何ひとつ意味がないように見えるし、その後も彼らはアメリカ・コロンビアで録音してもいる。だがメヒコ・コロンビアは望むならば自社のレコードを国外の他社に売ってもよいのだ。だからパンチョスのレコードはアメリカのティコやシーコからも発売された(ここでいうのは45年のシーコ録音のことではない)し、もっと極端にいうとそのシーコ盤はメヒコでも同社と契約しているピアレスからも輸入販売されていた。このことはあとで記そう。
1948年も暮れから数えたほうがよいころになっていた。メヒコに帰って来たのだ、感激のあまりナバーロはカミーノ・デ・ミ・ティエラ(我が故郷の道)という曲を作ったと伝えられるがこの曲は録音されてはいない。このようにナバーロが作ったがパンチョス自体がレコーディングしなかった曲にはノ・メ・ブエルバス・ア・ベール(カラベラスが録音)カスカーラス・デ・テキーラ、アシー・パーゴ・ジョ(ルイス・ペレス・メーサ(3)録音)があった。
放送、劇場、ナイトクラブと多忙な日々だった。放送はXEW局の、52年からはテレビ化されて「レビスタ・ムシカル・ネスカフェ」になった「ラ・オーラ・ネスカフェ(ネスカフェ・アワー)」、伝統的ともいえる音楽番組である。劇場はレビュウーの名門ティボリ(4)もっともこの劇場がオープンしたのは46年だから当時は名門でもなんでもなく、それだけにパンチョスの出演は話題になったことだろう。この48年の夏にはキャバレーのコンパルサ(その他多勢の一人だったジョランダ・モンテスを引き抜いて大抜擢、トンゴレーレという、なんとなく異国的な芸名をつけ外国人をうたってオンブリギスタ(ストリッパー)としてデビューさせたのが大当たりになった。彼女はメヒコのストリッパーの伝説である。なおメヒコの一流劇場やナイトクラブに出るストリッパーはせいぜいビキニスタイルまでであって、かっての日劇ミュージックホール(これも伝説)ほどにも脱がない。だからトンゴレーレの写真もいくつか見たが、彼女の乳房を拝見したことがない。
3.ルイス・ペレス・メーサはコロンビア,ピアレスなど各社にLPがあるシナロア州出身の歌手でシーコにもLPがある。
(SCLP9276)そのひとつはパンチョス・メロデイはひとつもないのに「L,ペレス・メーサ、パンチョスにごあいさつ」と題され、ジャケットにアルビーノ期のパンチョスの姿も並ぶ。パンチョス初録音の四曲も入ったCDSEECO SCCD 9093 Estrellas de MEJICO)にも三曲入っていた。4.ビクターはペレス・プラードやらディアマンテスやらの寄せ集めでティボリのレビューを再現した(?)LPを作ったことがある。SEECO
ナイトクラブはメヒコが誇るエル・パティオ。だが店のオーナーはパンチョスのことは噂に聞いただけでレコードも耳にしていなかったからその反響に驚いた。出演予定時間はとうに過ぎているのに彼らはステージからされないでいる。楽屋に引きあげようとする彼らを司会者がおいかけている。第1回目のショウでパンチョスは三回も舞台に引っぱり出された。パンチョスが成し遂げた一番の偉業は、とディアマンテスの面々はいう、「エル・パティオ」に出演したことだ。それが我々トリオたちに、どんなに役立ってくれたことか」
「エル・パティオ」のオーナーがパンチョスのレコードさえ聞いていなかったと書いた。人に薦められて出させてやる気なったのである。これは当時の一流クラブのオーナーの共通した態度であって彼が無知だったのでは決してない。ラサロ・カルデナス大統領の時代このかたマリアチの立場も随分向上していたのだが、そのマリアチにしてもトリオにしても内外一流人が来るナイトスポットには出演させてもらえず、二級クラブやバー、レビューが関の山だったのである。それがパンチョス以来一級クラブも門戸を開いたのだった。この話は本当かかどうか定かではない。アビレスはアペンディシティス(盲腸炎か虫垂炎)にかかっていて、手術もそこそこに包帯を腹部に巻きつけて舞台に立ったという。当然レコーディングが行われた。パンチョスのレコードの売れ行きをビクターが指をくわえているわけもなかった。ヒルとは旧知の仲であるアーティスト・ディレクター、マリアーノ・リベーラ・コンデ(1914〜1977)を使者に立てビクター入りをうながしたが、メヒコ・コロンビアの専属になったばかりの彼らが首をたてにする道理もなかった。こうして彼らはコロンビアに録音するが、オルティス・ラモスは同社のマトリクス(母盤)記帳は12月14日だと記録している。◆シン・ティ/ぺぺ(ホセ)ギサル作の有名なパンチョス・メロデイである。だが最初に録音したのはパンチョスではなく、たしかに楽譜は48年に出ているのだが41年にマノリート・アレオーラが録音したという(まるで反響がなかったそうだ)。ちなみにティト・ギサルの弟がグアダラハーラやマリアチを発表したのが37年である。48年に楽譜が出されたのはキューバから来ていたトリオ・ウルキーサやぺぺ・ギサル自身が吹き込んだためだろう。しかしパンチョスほどには当たらなかった。◆ノ・ノ・イ・ノ/オスバルド・ファレス作ボレロ◆シン・レメーディオ/ナバーロ作ボレロ◆エル・ブーロ・ソカロン/ナバーロ作グアラーチャ◆ペンセー・ケ・ノ/ヒル作ボレロ
この年の内にパンチョスは映画エン・カダ・プエルト・ウン・アモールに出たが「クワンド・エル・アルバ・ジェーゲ」が第一作だったともいう。いずれにしても出演といっても芝居をするわけではなく一曲歌うだけのことだから一時間もあればすんでしまう。
1949年が明けると早々にパンチョスはニューヨークに向かった。もちろんレコーディングするわけでもなく、クラブ出演のためなのだろう。あのプエルト・リコでの吹き込みのキャンペーンのためでもあったのかも知れない。アメリカでのパンチョスの売れ行きは大変なものだったと想像される。だから今回のメヒコへの帰途には最新のキャデラックが一人に一台提供されたという。録音は3月25日に始まったが、9月と10月は大変な量だ。とにかくSPの時代であることを考えると驚異的でさえある。まず3月に◆ミ・マグダレーナチューチョ・マルティネス・ヒル作ボレロ◆ピエンサ・ビエン・ロ・ケ・メ・ディーセスオスワルド。ファレス作ボレロ◆フロール・デ・アサーレアマヌエル・エスペロン(曲)サカリアス・ゴメス(詞)ボレロ。ホルヘ・ネグレーテもトリオ・カラベラスと珍らしやボレロで歌っていた。曲の後半はまったくセレナータの雰囲気だが対象になるアサーレアの花は暗く不幸な生活をしてきたことが詞でわかるもののそれがどのようなものか判然としない。このころキャバレーを舞台にした映画が全盛だったから落ちぶれた女に救いの手をさしのべているのだとも解される。ところが第二次世界大戦に直接加らなかったメヒコには勝利あるいは逆に悲惨を歌った曲はごく少ないのだが、これはそのごく少ない中のひとつだったと読んだことがある。もしもそうならばアサレアの花は敗戦国を指していることになり内容も納得が行く。アサーレアとかアザリアとかいわれてはいるが美しくこそあれ香りのないこの花は和名さつきつつじ、和名も何も日本原産の花である。
いかの記録はオルティス・ラモスによる。3月17日に◆コンティーゴ/独得のギター奏法で知られるクラウディオ・エストラーダ作ボレロ。パンチョスのオープニング・テーマになった。71年の25周年コンサートで彼らに先立つ楽団のパンチョス・メドレイーもこの曲で始まったし、アルビーノ時代のライブを模したLPでもそう.引退後のヒルの自宅でのパーティでのさんざめきでもコンティーゴで始まりメ・ボイ・パル・プエブロで終わった。日本公演では当然このようなことはなかったし、マドリードでも。ここではペルドンで始まった(悪い洒落?)。◆アモールシート・コラソン/マヌエル・エスペロン(曲)ペドロ・デ・ウルディマーレス(詞)ボレロ。47年にペドロ・イン・ファンテが主演した映画ノソートロス・ロス・ポブレス(オレたち貧乏人)で歌ってヒット、48年にも二匹目のドジョウ、ウステーデス・ロス・リーコス(あなたたち金持ち)でもうたった。インファンテのレコーディングはボレロ・ランチェーロの第一号とされる。6月に◆アモール・デ・ラ・カージェフェルナンド・Z・マルドナード作ボレロ。同年の映画イポークリタでパンチョスが歌った。典型的なキャバレー舞台の映画で巻頭でパンチョスが歌うとキャバレー場面に続く、つまり彼らはキャバレーのステージに立っているという設定である。この映画は「きゃつを殺せ」という怖ろしい題で日本でも公開された。そして同年度にパンチョスが出演した―なんとこの年16本も出演したのだ―アベントゥーラもこれまた「肉体の抗議」というおどろおどろしいタイトルで公開されている。
◆ニ・ケ・シ、ニ・キサー、ニ・ケ・ノ/ナバーロ作ボレロ◆マルディート・コラソン/ナバーロ作◆テ・フィステ/マヌエル・エスペロンとヒル合作ボレロ。エスペロンは典型的なメロディ・メーカーで、この人が詞を書いたという話はおよそ伝わっていないから、彼の作曲にヒルの詞と考えて間違いない。◆デペンデ・デ・ティ/エスペロンとアビレス合作のこのボレロ・ソンについても同じことが言える。これがまたハッピーソング、新婚旅行に行きたがっている彼女に“アカプルコ、悪くないねえ。二人っきりでボートで愛を歌う、水着で愛し合う。キミが望むことはデペンデ・デ・ティ(キミの好きなまま)”。彼らの私生活の記録はまったくないが、アビレスは36歳ぐらい、これは実話じゃないかと思われてくる。二年ほど前(47年)にアグスティン・ララもマリア・フェリクスとアカプルコへ再婚どうしのハネムーン、マリア・ボニータを書き、そこにもアカプルコの名が、太平洋岸のこの観光都市は新婚旅行の定番である。7月と8月にレコーディングがないのでさこそこと想像をふくらませてしまうけれど、夏のアカプルコはオフ・シーズン、暑くて居られたものではない。そしてオルティス・ラモスによればアビレスがメヒコ娘マレーナ・ペレグリーナを妻にしたのは50年ごろ、つまり翌年のことだったという。アビレスは後年レストラン・クラブ「ジョージス(英語ふうに“ジョージ”の)」をメヒコ市のブランキータ劇場近くに開いて自身も同店で歌っていたがその経理や他の出演者とのマネージェントは彼女にまかせていた。
こうして次の録音は9月。◆アイ、ミ・ビーダ/ガブリエル・ルーナ・デ・ラ・フエンテ作ボレロ。作者の姓は“泉の月”、ペンネームかも知れない。詩人であり、ガブリエル・ルイスと佳曲を残したが49年作のこの曲は作曲もしたごく少ない例のひとつ。◆ペラーオス・エストス/ナバーロ作。次の曲ともどもナバーロの一人舞台。題は口語で「ゲス野郎このオ」といったところで、つまらない罪で警官に獄へ追い立てられる男がこずくなよ、ペラーオス・エストズとわめいているコミックソング。◆ヘンダールメ777(シエテ・シエテ・シエテ)/同。こちらはまことにいい加減な警官777号のセリフ。メヒコが世界に誇る喜劇役者カンティンフラス(マリオ・モレーノ)の映画にヒントを得たという。チャップリンがただ一人だけ賞賛したと伝えられるカンティンフラスの得意役は独得の不思議な言葉(カンティンフラス語)をふりまわす、気のいい男で、このような男のこともペラーオといい、歌の間に仲間へのかけ声にも聞かれる。
10月の録音はすざまじい。CD時代のこんにち発掘してくれる社があるのはありがたいことで、十把一からげなどと難くせはつけられない。◆ミセーリア/ミゲル・アンヘル・バジャダーレス作ボレロ◆アルマ・バニドーサ/トニイ・フレーゴ作ボレロ◆アモール・スブリーメ/マリオ・アルバレス作ボレ◆ロナーダ/チューチョ・パラシオス作ボレロ◆トライドラメンテ/チューチョ・モンヘ作ボレロ◆プロブレーマ/マリオ・テルセーロ・チェバリエール作ボレロ◆ア・ティ・ケ・テ・インポルタ/ヒルベルト・ウルキーサ作ボレロ◆ラ・ムクラ/アントニオ・フェンテス作グアラーチャ。ベニイ・モレーがペレス・プラード楽団とメヒコで録音したのがまったく同年同月10日だったのは興味深い。思えば49年というのは大変な年であった。パンチョス人気もさることながらキューバからやって来たペレス・プラードのマンボが徐々に人気をあげ、11月には彼とデビューしたばかりのマリア・ビクトリアがテアトロ・マルゴ(現ブランキータ)に登場してソイ・フェリスを歌う姿態が評判を呼んで空前の大入りになったのである(彼女の伴奏をしたのはルイス・アルカラス楽団だった。レコードも同じ)。ランチェロのエルマノス・サイサルがデビューしたのも同時期だったが彼らは述懐している「我々なんか誰も目をとめてくれませんでした」。
◆ラ・バーカ エドゥアルド・セラーノ作ホローポ◆バルロベント エドゥアルド・セラーノ作、メレンゲ・ベネソラーノ◆ロス・ドス シモン・ラン作ボレロ◆アスタ・マニャーナ ナバーロ作ボレロ。ボレロ中心のトリオとなった今、やはり再録音したかったに違いない。◆テ・エスペーロ 同、同◆フロール・デ・アロージョ 同、同◆レジェンダ・デ・ロス・ボルカーネス 同、一応カンシオン・インディハナと形式名を付している。メヒコ市の東にあるふたつの火山ポポカテーペトル(煙山5,645m)とイスタクシウアトル(白い女5,230m)にまつわる伝説による。およそほかにとりあげそうにない曲だが、なんとヨーロッパのロス・マチュカンボスが録音していた。
録音が終わるとすぐ10月29日にトリオはキューバへ向かったが、その首都アバーナまではプロペラ機の当時でも3時間ほどである。アバナ市南西の現在はホセ・マルティと名ずけられている国際空港から市心までオープンカーでの警備員つきのパレードは語り草に残っているほどで、メヒコからの滞空時間と大差なかったのではないか。通過するみちは彼らを一目見ようとする人々にあふれていた。デビューは11月3日のCMQ局とクラブ(キューバではキャバレーと呼ぶ)であった。同店では常演のショウがあるのだが、それから独立した特別出演である。この時の出演料が4千ペソだったという説がある。資本主義だった当時のキューバのペソはドルと等価だった。昭和25年1ドルは360円だった。もちろんアゴアシはキューバ側持ちだった。11日にはカンポアモール劇場出演。どうも飛び飛びのスケジュールだが、実はその合間にレコーディングもしていた。
◆ディレマ/ドミニカ人のファン・ロクワルド(ロックワードと発音するのだろう)作のボレロ。不倫関係にある二人の愛の歌でパンチョスにはまこと珍しい曲。ウナ・ボス/レコードにはナバーロとH.Harrisとある。ハリスはスパニュシュ圏の名とは到底思えないがアルゼンチン人だそうだ。ボレロ。◆エテルナメンテ・ミア/同◆コラソン・マチート/H.R.ナバレーテとパドローン作ボレロ。
SEECO SCLP 9276 Luis Perez Meza SEECO SCLP 9276
Luis Perez Meza
Estrellas de Mejico SEECO SCCD 9093
Luis Perez Meza Secco SCLP9276 Luis Perez Meza El Trio Los Panchos
Con Mariachi Los Palmeros de Ramiro Jauregui
 A.   1.Obsesion
 2.Lamento Borincano
 3.Amor Perdido
 4.Morenita Mia
 5.Copa de Vino
 6.OjosTristes
 B.  1.Sino Dios Me Quita La Vida
 2.Vereda Tropical
 3.Mi Viejo San Juan
 4.Nadie Como Tu
 5. La Pared
 6.Sin Tu Amor
CD Seeco SCCD9093
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