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妻が夫の許しもなくステージに立った、それでもめることがあったにしても幸せな二人であった。そんな或る日_ 食事をすませるとチューチョは「ひと眠りする。 X時に起こしてくれ」カリダーに言いおいてベットに入った。いわれた X時にカリダーが行ってみるとチューチョは気持ち良さそうに眠っている。ほんの少しならと彼女はチューチョをそのままにしておいた。ほどなくチューチョは自分で起き上がってきた。すごくたかぶった表情である。時間どおりに起こさなかったので怒っているのだろうと彼女がわびを言おうとする前に彼が口をきいた「聞いてくれ、カリダー。俺、おふくろの夢を見たんだ!」興ふんしきった面持ちでチューチョは夢に現れた母のことばを話した_ チューチョ、お前はたくさんの女たちにのために歌をこしらえてきた。_ なのにどうしてこの私にはひとつも作ってくれないのだね。そのとうりだった。女たちにはペルディーダやらプリンセーサ・デ・ノーチェ(夜の姫君)といった世間体のよくない女にも歌をつづっているのに、36年に他界した母シルベストレには一曲もないのだ。彼があれほどの大酒呑みになったのは母を失った悲しみをまぎらわせようと暴飲したのが元だと 言われるほどに母親っ子だったというに。 母のために曲を作るぞ、出演の場に行く間にも彼の頭の中はそのことでいっぱいだった。早速ヒルにも話したのだが、彼の到着が遅いので苛々していたヒルは耳を借してはくれなかった。 55年12月ロス・パンチョスは初めての旧大陸、つまりヨーロッパ巡演に出発する。それまでの旅は、カリベ海を含むアメリカ州内であったのに、ヨーロッパは大西洋という大海原の向こう、いかにも遠い。 そんな所まで行くのだから当然長期間である。一年近くに及ぶ可能性もあった。出発のその時、チューチョとカリダーは甘く長く切ないくちづけを交わした。この時カリダーは身体の中に新しい生命を宿していたのだが彼女もチューチョもそれに気づいていなかった。 旧大陸でもロス・パンチョスは通用するのだろうか、抱えていた一抹の不安は、スペインの首都マドリードのナイト・クラブ「サーラ・フォントリア」での初日の成功でふっとんだ。バジャドリード、バルセローナ、マジョルカ島、マラガなどなどを巡り、西隣りの国ポルトガルへ。ご当地ソングの名手(?)チューチョは「フェリス(幸せな)・ポルトゥガル」を作っている。 とうに56年である。フランスやイタリアは飛びこえてギリシャ、地中海を越えてヒルの父の故郷レバノン、イスラエル、そしてふたたびギリシャへ向かおうとしたのが7月末か8月である。7月26日にイスラエルの西エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したのに対し英・仏が反発、地中海に面した国々では正当な理由や身柄の保障のない民間人の出入国が禁じられた。ロス・パンチョスもレバノンで足止めを喰らっている。 どうにかギリシャ経由でスペインに戻ったロス・パンチョスはレコード録音に入るが、これが彼らの歴史にあって殆ど無かった珍しいものであった。フリート期のロス・パンチョスは二曲ほどマリアチ伴奏で録音しているが、今度はフル・オーケストラでやろうというのである。それも30センチLPまるまる一枚分も。このような企画がどのようにしてうまれたのかは分からない。フリートの声をもってすればフル・オーケストラにじゅうぶん太刀打ちできると踏んでのことか。 楽団の指揮と編曲を務めたのは、スペインを代表する音楽家となるが当時は新進気鋭だったはずのアウグスト・アルゲーロで自身の作品もみっつ含まれている。母に捧げる曲を作る、チューチョの決心は、この録音で遂に実現する。「マドレ・エス・オラシオン Madre Es Oraciónである。女性への切ない恋の口説を甘ったるく歌うのを自家芸とするロス・パンチョスには場違いな感じで、メロドラマから論語か聖書に転換したみたいだが、それだけに強烈な印象を残した。 オラシオンとは祈り、祈とうのこと、秀吉、家康時代のきりしたん語でも “おらしょ” として広く使われていた。マドレ(母)と唱える行為はオラシオンを捧げるのと同じ、と言うわけである。そしてオラシオンを唱える行為は御守り(おまもり)にほかならない。 |
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A la memoria de Marta Ramos Marrero... Madre... No puedo hacerte una canción, que expresarte pudiera la inmensa ternura de tu corazón. Madre... que más pudiera yo expresar, yo que tanto te adoro, pues al darme la vida aprendiste a llorar. La más dulce expresión del amor, solo en tí la he podido encontral. Y la fe que hay en Dios solo en tí, madrecita, se puede anidar. Madre... No puedo hacerte una canción. Tienes alma divina, Y en el mundo no encuentro la divina expresión. Madre, Madre mía... eres oración. Madre es Oración de Chucho Navarro (Grabada por el Trio Los Panchos en 1956) |
お母さん ボクにはできません あなたの心の計り知れぬ優しさを ひとふしの歌で表そうなんてことは。 お母さん これ以上どう表現できましょうか こんなにもあなたをお慕いしているこのボクに、 ボクに生命をお授けくださったその時に 泣くということを学ばれたあなたなのですから。 愛情のこよなく優しい表出 それを ボクはあなたの中にだけ見つけられました 今もなお、 そして神の中にだけ存在する信仰は お母さん あなたの中にだけ 宿されることができるのです。 お母さん ボクには作れません ひとふしの歌なんか、 あなたは神々しいお心をお持ちだ そしてこの世のいずこにも 神々しい表出は見つかりません。 お母さん ボクのお母さん あなたは、オラシオン。 |
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ところで外国の著作には内表紙のすぐ次のページに《(本書を)何其に捧ぐ》と献呈辞がおかれることが多いのだが、オルチス・ラモス①で珍しいことをやっている。《マルタ・ラモス・マレーロの想い出に(捧ぐ)》としてチューチョの「マドレ・エス・オラシオン」の詞をまるまる揚げたのだ。左ページががその原寸大コピーである(原文)。著者がナバーロと親しく、しかもこの詞に感銘を受けたからであろう。けれども同書の日本版では趣旨が理解しにくいためか、そっくり削られてしまっている。 書とこの詞を彼は母に贈ったのだった。 |
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La Historia Del Cyucho Navarro_11.P37. スペインでの録音は、もともとそのような契約であったのか滞在期間中にLP一枚分に間に合わなかったのか6曲であった。ロス・パンチョスは直接ニューヨークへ飛ぶ。8月すえである。ここで彼らはエンパイヤー劇場のレビューに出演するのだが、それにはニューヨークを本拠とするプエルト・リコの人気トリオも出ていた。ジョニイ・アルビーノとそのトリオ・サン・ファンである。ヒルとナバーロ、ロス・パンチョス四代目のトツプとなるアルビーノの初対面だった。 楽団伴奏による残り6曲も録音する。編曲と指揮はアルゼンチン人のテリグ・トゥシである。彼は結成すぐのロス・パンチョスに楽理を教えた人、いわば恩人であって、当時の彼らの吹込にコロンビアのスタジオ・オーケストラ伴奏のが二曲あるが、その編曲と指揮も彼である。チューチョが温めていた主題は母だけではなかった。この時に録音した「エス・メヒコとかマドレ・エスパーニャ」とかはさておき、重要なモチーフがもうひとつあったのである。それもこの時に実体化した。つまりレコーディングした。ただし楽団伴奏ではなくロス・パンチョス単独で。・・・ |
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