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では、ラテン・スタンダードには、どのような曲があっただろうか。 ▲グリース・アイズ(あくぇりよす・おじょす・う"ぇるです) クガー楽団などで結構知られていたのだが、40年にトミー・ドーシ楽団でブレーク。 ▲ユアーズ(くえれめ・むーちょ) ▲パーフィディア(多分このように発音されたろう) グレン・ミラーやハリー・ジェームス。 ▲フレネシ/ アーティ・ショウ(シャウではない)/ 39年にメクシコへ新婚旅行に行った彼が持ち帰り、40年にフォクストロットにして当てた。 ▲ユー・ビング・トゥ・マイ・ハート(そらめんて・うなう゛えす) ▲マジック・イズ・ザ・ムーンライト(て・くえろ・でじすて) ▲タイム・ウォズ(どうえるめ) 以上はこの時のパンチョス録音曲だが、ほかにホワット・ア・ディファレンス・ア・デイ・メード(くわんど・う゛えるう゛ぁ・とぅ・らーどぅ)などきりがない。なおベサメ・ムーチョもキス・ミー・マッチと題されていたが、が今もこの訳題は生きているかどうか。これらが録音された背景には米コロンビアからの特別注門があったのではないかと私は考えている。アルビーノ期の英語で歌ったLPバイ・スペシャル・リクェストと同じ方向だ。 このLPはアメリカの有名曲だったが、ラテン・スタンダードをオリジナルでパンチョスにやらせたら売れるのではないか、この目論見がみごとに適中したことはご存知のとおりである。アメリカからの特注と推理するる理由は、オルティス・ラモスが《不思議なことにこれらの録音はメヒコ・コロンビアの帳簿にはまず52年7月26日、そして53年1月22日(中略)ジャ・メ・ボイとマル・イ・シエロは3月19日に現れる》としていることによる。 7月分はエストレジタ・デル・スールなどがそれと推定されるアルゼンチン録音、1月分はブラジル録音だろう。だがこのことはあとで記すがブラジルでの録音は7月中に完了していたはずで、実際はめぐりめぐるうちに逆になってしまったのかもしれない。いずれにもせよメヒコ側はシャウ・モレーノ期には食欲をそそらなかった。その内にニューヨークで新録をしたという情報が入る。ジャ・メ・ボイとマル・イ・シエロである。3月19日はそのプレスにかかった日づけと解釈すればつじつまが合う。メヒコで25センチLP(コロンビアの記号はDCL)が出されていた期間は30センチ時代がすぐ来るので二年間ほどでしかないがDCL_33が「54年ヒット集(パンチョスはドス・コーサス)」だからサンプラーのDCL、1が発売されたのは54年、早くても53年末である。 DCA_2がパンチョス第1集でフリート期(ジャ・メ・ボイ以外は53年録音)、_34~37がアビレス期、_38が日本でもそのまま出されたバージャ・コン・ディオスで始まるロドリゲス期、_39第7集に及んでやっとシャウ・モレーノが登場する。後述するベスト・セラーズだ。 これらの録音で注目すべきはヒルのレキントの冴えである。シャウ・モレーノの声の重さに気づいたヒルは、それをカバーするにはレキントの軽妙さによるしかないと気づいたに違いない。いくつかの曲では大流行のマンボの感覚をとり入れている。それがどんなに私たちを魅了したことか。 メヒコ、プエルト・リコ、日本、それぞれにパンチョス・ファンの好みは違うのだがこと日本に関する限り、この時代の―それ以降であっても当時を引き継ぐスタイルでの―録音のお世話にならなかった者はいない。 シャウ・モレーノ時代の録音は、オルティス・ラーモスによれば27曲だが、あれこれつき合わせて分かっただけを次に記す。録音はアルゼンチンとブラジルでなされた。 ▲アケージョス・オーホス・ベルデス/ ニーロ・メネンデス曲、アドルフォ・ウトレーラ詞 ▲キエレメ・ムーチョ/ キューバのゴンサーロ・ロイグがアグスティン・ロドリゲスの詞によって1931年にサルスエラ(オペレッタ)用に作ったのだが実はもっと古く、17年に歌手女優ブランカ・ベセーラに捧げられ彼女が創唱したという。前の曲ともども初めのルバート部分はオリジナルでは3拍子だった。 ▲ペルフィディア/ アルベルト・ドミンゲス作 ▲フレネシー/ 同 ▲ソラメンテ・ウナ・ベス/ アグスティン・ラーラ作 ▲アモール/ ガブリエル・ルイス曲、リカルド・ロペス・メンデス詞 ▲ベサメ・ムーチョ/ コンスエーロ・ベラースケス作、次回予定→(La Historia0に掲載) ▲テ・キエロ・ディヒステ/ マリア・グレベール作 ▲ドゥエルメ/ ミゲール・プラード作 ▲マリア・ドローレス/ ハコーボ・モルシージョ作。これらの録音曲の中で異彩を放つボレロ・モルーノ。つまりスペイン風ボレロなのだが、あまりにもスペイン情緒をむき出しにした内容から作者はスペインの人ではないかもしれない。 ▲ジョ・キエロ・エサ・ムヘール/ ボリビアのオスカル・キンレイネール作 ▲ウナ・アベントゥーラ・マス/ 同。前曲、そして次の曲ともシャウ・モレーノの持ち込みだろう。ベネスエラ出身で英国でラテン・バンドひきいたエドムンド・ロスがどんな風の吹きまわしか自身のへたっぴいな歌をそえて録音した(もちろんロンドンで)こともあった。 ▲エストレジータ・デル・スール/ フェリーペ・コロネル・・ルエダ作バルス・ペルアーノ ▲マリア・エレーナ/ ロレンソ・バルセラータ作バルス(ワルツ)、ブラジル側の特注品、つまりブラジル録音。そう考えないと前曲とは異なり典型的なバルスがまぎれこむ理由が分からない。 La Historia8中程頁のプント・フィナールの項に書いたようにこの曲はブラジルで知られていたのである。それはさておき例のベストセラーズではよきお色直しになった。 ▲マグダレーナ/ 未聴なので断言はできないがアイルトン・アモリン曲、アリ・マセード詞のサンバとしか考えられない。ほかならぬ51年のブラジルのカルナバルで超ヒットした曲である。ブラジルでのつづりはマダレーナ。メヒコでも51年ごろベニイ・モレーが録音し3年ほど遅れてアメリカでもクガーが当時の女房アベ・レーンに歌わせた。 ▲ラス・ドス・アミーゴ/ 不詳 ▲ジェーバメ/ フアン・クラウツとティト・リベーラ作 ▲ラグリマス・デ・アモール/ シャウ・モレーノ作。14歳の時に作ったとか。 ▲カリータ・デ・ペーナ/ ヒルとラファエル・ギハーダ作 ▲オルビーダ・ロ・パサード/ ナバーロ作。気に入った曲だったのか、この時の録音が不満だったのか、すぐロドリーゲス時代に再録音する。 ▲クリスト・デル・リオ/ ナバーロ作。パンチョスはブラジルでカルナバル・エン・リオという映画に出演(シャウ・モレーノ期唯一の映画)したが、その中での曲。マグダレーナも歌った? ▲ドス・パラーブラス・マス/ 同 ナバーロが三曲作ったのに対し、ヒルは合作で一曲にとどまった。共作者のことはまったく分からないがその姓名からブラジル人とは思えない。先にレキントの冴えと書いたがそれはすべての録音にわたってのことではなくて、手慣れた指さばきで漫然と弾いているような印象の個所もある。シャウ・モレーノの声にとびついたのはヒルだったがそれが誤ちと悟った度合いも大きかったろう。どうカヴァーするか考えるのがいっぱいで新曲どころではなく、ましてや彼にふさわしい曲のイメージも湧かなかったのではないか。 そして、ナバーロは彼の声は自分とは合わないことに気ずいていたと記したが、妙ないいかたであるけども合わないのではなくて、合いすぎるのである。音色がよく似ているのだ。その上に完全なテノールではなく音域もナバーロの声よりわずか高い程でしかない。このことは仮にシャウ・モレーノがパンチョス・メロデイに通曉していたとしても今までの編曲が通用しないということを意味する。そして同じような声色の二人が合唱するのだから、うっかりするとナバーロがトップを歌っているかのように聞こえる個所もある。 このようなわけでシャウ・モレーノはパンチョスを去るのだが、そこにわだかまりはなく、友愛はずっと続いた。パンチョス以後はアレクス・シャウらのとクワルテート・ロス・ペレグリーノスを組んだり、レコーディングのためだったのかも知れないがロス・トレス・カバジェーロスに加わったり、ソロ活動もしたが、2003年4月13日ブエノス アイレスで心臓病のため死去した。クワルテート・ロス・ペレグリーノスのほかのメンバーはウーゴ・エンシーナス、ルーチョ・オテーロ、マリオ・バリオスで、シャウ・モレーノとクワルテートの形をとっていた。 |
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(11)ヒルもナバーロもトップ・ボイスはプエルト・リコ人であるべきと考えていた。メヒコにも既にボレロを歌うトリオは存在したが、パンチョスの特徴はそれらにないパホーマンスである。キューバ人ではアクが強すぎるのではないか。南米人では失敗した。ヒルはパンチョスを熟知しているラファエル・エルナンデスに… (11) | |||||
"Shaw" Moreno Los Tres Caballeros U氏より | "Shaw" Moreno Con acomp. de "los Peregrinos" | ||||
"Shaw"Moreno Argentina 42030 |
Con acom de "Los Peregrinos" | ||||
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