26 Johnny Albino 7 110

メヒコで録音する予定の6曲をこの際日本でと望んだのはパンチョス側だろう。それも日本で発売したいとコロンビアは望んだと
思われる。しかし6曲というのはどうにも中途半端な曲数ではある。LPを2枚(通常12曲を2枚、つまり24曲)を構成するためにあと4曲、“なにかやってよ”になったのではないか…そんな情景を想像したくなる曲が並ぶ。
◆ラ・パロマ / 日本でも古くから知られていた曲だからコロンビアの注文リストにあったのかも知れない。ラテンの古典中の古典。キューバに生活したスペインのセバスティアン・イラディエール(1810〜1865)が帰国後184 年に作ったダンサ・アバネーラ、メヒコでは1866年以来歌われてメヒコの曲と思っている人もメヒコには多いそうだ。
◆ラス・マニャニータス / 誕生日に歌われる古謡。だからおよそ鑑賞曲ではないのだけれども、なるほどパンチョスにお祝いしてもらうのも豪勢なものだ。
◆ラ・ゴロンドリーナ / セバスティアン・イラディエール・セビージャ(1843〜1910)の19歳の時の作といわれる。とすれば1862年ごろということになるが19世紀の楽譜に発行年など記されていないから正確には分からない。当初は別の詞によっていたらしいが、こんにち流布している、パンチョスも歌っている詞はスペイン人ホセ・ソリージャの作。お別れの時に歌われる国民歌である。
◆メ・ボイ・パル・プエブロ / 何故この曲...不思議である。パンチョス・ショウの終了テーマだが、日本のステージはそうはいかなかった。お別れの曲ラ・ゴロンドリーナをやったのだからこれも録っておこうか、ということか。
そしてメヒコでレコーディングする予定だった6曲。この予定とは来日前に時間がなくなってしまったのと、離日後も7月まで国外でのスケジュール(レバノン、カイロ、イタリア、スペインなどなど)がいっぱいで母国では録音できないことによる。だからこれら6曲の内4曲はメヒコではアルビーノになって3枚目のLP、DCA152に今まで述べてきた南米録音とともに加えられ、「ラ・ディスタンシア・ノス・セパーラ」はアルバム・タイトルにさえなっている。何故2曲カットされたのかは、その曲の項で述べよう。
◆ラ・ディスタンシア・ノス・セパーラ / アルビーノ作。アルヘンティーナで彼はスペイン出身の或るダンサー歌手と恋仲になったが互いに浮草家業、別れるしかなかった、その追憶思慕の曲だという。のちに坂本スミ子が“あなたが歌うようにと彼から贈られた”とて録音したが、これは言葉の拡大解釈、“私の作ったこの曲をあなたが歌ってくれたら嬉しい”とは誰しも口にすることで、贈られたわけではない。(a
◆カリルー / アルビーノがナバーロの当時生後8ヶ月だった坊やに捧げた新曲。当時47歳ほどのパパは常時その写真を携行していたそうだ。カリルーとは聞き慣れない名前だが、カリダーを愛らしく表現したのだろうか。もっともカラダーは女性名だが...。
◆ケ・エル・シエロ・テ・ペルドーネ / ペドロ・ダビラ作、原曲はタンゴだったかも。
◆マーラ / D.L..アブレウ曲、ヒル詞
◆ケ・ノ・ケ・ノ / ナバーロ作グアラーチャ。愉快な曲なのだが、おしまいのほうで電話の音に続いて「もしもし」、この日本語がメヒコでこの曲がけずられた理由だろう。
◆エル・サパート / ナバーロ作ウアパンゴ。メヒコではカットされたが、メヒコではパンチョスのウアパンゴなどお呼びじゃないのである。それにナバーロ作になってはいるがこれは古くから伝わる曲のはずである。

チクレ モリナガ (Chicle Morinaga)
レコーディングは4日間で終了し、60年2月2日朝8時20分パン・アメリカン航空便でパンチョスはレバノンへと旅立った。出発までの数日間にもう一仕事あった。森永製菓のコマーシャル・フイルム出演という前代未聞の仕事である。チクレ・モリナガのコマーシャル・ソングを作って歌ってほしいという依頼を来日初日に受け静岡で初演したことは先に述べた。作ったのはやはりヒルだろう。フリート時代にプエルト・リコでビールのコマソンを歌ったことも記した。では何故これが前代未聞なのか。外人タレント、いわゆる外タレを用いたコマーシャルはひと頃ブームといえるほどに多く、ウームマンダムのチャーリー・ブロンソンが今も想い出されるが、パンチョスこそ外タレCM第1号だったのである。スタジオの扉、その上の録音中と書かれたパネルが赤く灯るとスタジオ内になって三人が歌っているという構成が実によく出来ていた。日本文字こそ入るが、ことばはスペイン語、全部外国語というコマソンもまた前代未聞である。また当時はビデオテープなどなかったからフイルム撮影でそれが幸いしてかこのフイルムは映画館でも上映されたのだった。スクリーンではカラーだった ー“パネルが赤く灯る”− が、私の記憶が正しければテレビはモノクロだったはずである。新聞雑誌の広告のモデルはもっぱらナバーロだった。なおパンチョスのこのコマソンはキングが出した
CD「懐かしのTV・CM大全集・第1集」(K25X227)(Chicle Morinaga)に収められていた。この場合は特例として“森永のタレント”である。例えば彼らはメヒコでも多くの映画(あるいはテレビやラジオ)に出ているが、そこでの音は出演した会社に属する。
ところでチクレ・モリナガは商品として当たらなかった。前項「ラ・クカラチャ」でふれたようにメヒコがらみのものは日本では、まず当たらない。同社のチョコレート「アステーカ」しかり、かのネスカフェのオアハカ(だったと思う)しかり。定着しているのはタバスコ(同じチリソースでもハラペーニョはダメ)、ドン・タスコがまあまあ、商品ではないがアポカド(これとてアボガドと間違って読まれているが)など。  Chicle Morinaga
a)トリオ・ロス・チカノスがCDに録音した或る曲もそうだった。その作者が来日した時のパーティで“歌って下さい”と楽譜を手渡しその場のピアノで演奏もした。その通訳をし、詞の大意をしゃべった当人の証言だからこんなに確かなことはない。だが作者は新作だといっていたのだけれど、どうも前に、どこかで聴いたメロディでありタイトルであり、気になっていた。とこかなどというものではなかった。数日後、ほかならぬ私のレコードだなに数年前メヒコで出されたLPの、しかもA面のトップにそれはあった。谷川越二 サイン
27 Johnny Albino_8 アルビーノ受難期 112
このようなわけで60年7月(もしくは6月)メヒコに帰ったパンチョスは録音することもなく、その年の暮れには日本を訪れて62年の正月を日本で過ごすとレコーディングに入った。前回「週刊平凡」の表紙飾った彼らは今度はライバル誌「週刊明星」の表紙に森山加世子と登場する。また60年にはロス・トレス・ディアマンテスも来日した。パンチョスが行ったばかりだからとメヒコでは危ぶむ声が大きかったのだが見事に成功した。
わずか一年で再来日(正確には十一ヶ月弱)というのはとうぜんだったろう。来日アーティスト日本録音は……
Back