|
||||
メヒコで録音する予定の6曲をこの際日本でと望んだのはパンチョス側だろう。それも日本で発売したいとコロンビアは望んだと |
||||
チクレ モリナガ (Chicle Morinaga) | ||||
レコーディングは4日間で終了し、60年2月2日朝8時20分パン・アメリカン航空便でパンチョスはレバノンへと旅立った。出発までの数日間にもう一仕事あった。森永製菓のコマーシャル・フイルム出演という前代未聞の仕事である。チクレ・モリナガのコマーシャル・ソングを作って歌ってほしいという依頼を来日初日に受け静岡で初演したことは先に述べた。作ったのはやはりヒルだろう。フリート時代にプエルト・リコでビールのコマソンを歌ったことも記した。では何故これが前代未聞なのか。外人タレント、いわゆる外タレを用いたコマーシャルはひと頃ブームといえるほどに多く、ウームマンダムのチャーリー・ブロンソンが今も想い出されるが、パンチョスこそ外タレCM第1号だったのである。スタジオの扉、その上の録音中と書かれたパネルが赤く灯るとスタジオ内になって三人が歌っているという構成が実によく出来ていた。日本文字こそ入るが、ことばはスペイン語、全部外国語というコマソンもまた前代未聞である。また当時はビデオテープなどなかったからフイルム撮影でそれが幸いしてかこのフイルムは映画館でも上映されたのだった。スクリーンではカラーだった
ー“パネルが赤く灯る”− が、私の記憶が正しければテレビはモノクロだったはずである。新聞雑誌の広告のモデルはもっぱらナバーロだった。なおパンチョスのこのコマソンはキングが出した CD「懐かしのTV・CM大全集・第1集」(K25X227)(Chicle Morinaga)に収められていた。この場合は特例として“森永のタレント”である。例えば彼らはメヒコでも多くの映画(あるいはテレビやラジオ)に出ているが、そこでの音は出演した会社に属する。 ところでチクレ・モリナガは商品として当たらなかった。前項「ラ・クカラチャ」でふれたようにメヒコがらみのものは日本では、まず当たらない。同社のチョコレート「アステーカ」しかり、かのネスカフェのオアハカ(だったと思う)しかり。定着しているのはタバスコ(同じチリソースでもハラペーニョはダメ)、ドン・タスコがまあまあ、商品ではないがアポカド(これとてアボガドと間違って読まれているが)など。 Chicle Morinaga |
||||
(a)トリオ・ロス・チカノスがCDに録音した或る曲もそうだった。その作者が来日した時のパーティで“歌って下さい”と楽譜を手渡しその場のピアノで演奏もした。その通訳をし、詞の大意をしゃべった当人の証言だからこんなに確かなことはない。だが作者は新作だといっていたのだけれど、どうも前に、どこかで聴いたメロディでありタイトルであり、気になっていた。とこかなどというものではなかった。数日後、ほかならぬ私のレコードだなに数年前メヒコで出されたLPの、しかもA面のトップにそれはあった。 | ||||
27 Johnny Albino_8 アルビーノ受難期 112 このようなわけで60年7月(もしくは6月)メヒコに帰ったパンチョスは録音することもなく、その年の暮れには日本を訪れて62年の正月を日本で過ごすとレコーディングに入った。前回「週刊平凡」の表紙飾った彼らは今度はライバル誌「週刊明星」の表紙に森山加世子と登場する。また60年にはロス・トレス・ディアマンテスも来日した。パンチョスが行ったばかりだからとメヒコでは危ぶむ声が大きかったのだが見事に成功した。 わずか一年で再来日(正確には十一ヶ月弱)というのはとうぜんだったろう。来日アーティスト日本録音は…… |
||||
|