29 Johnny Albino 10 Requinto Guitarra 120

1959年パンチョス初来日で、私たちはレキントという楽器を初めて知った。レキントそのものついては既にふれたが、ここで日本の情況を書きとめておきたい。
パンチョスやディアマンテスのギターのサウンドはどのようにして生まれるのか、それはトリオに憑かれた者たちの最大のナゾであった。(それはメヒコでもプエルト・リコでも同じことだった)。まず考えられたのはカポタストを使って音を上げることだった。そうすることで、それらしい音を得ることはたしかに出来たのだが、右手指の運用範囲が狭くなってしまう。ヒルもそのことに気づきその解決法を考え抜いてレキントの発案に至ったのだった。ではハイ・ポジションの駆使か。
今は静岡県伊東の?の経営者の地位にある淡谷幹夫がハイ・ポジションでパンチョスの前奏をやってのけたのを聴いたことがあった(来日以前である)実にあざやかで、あっけにとられたものだが、それはあくまで彼の手なぐさみ、遊びであって、それ以上には弾かなかった。低音とのバランスがとれないし高度の技術が必要だからである。付記しておくが優秀なギター奏者は他者の真似ぐらい手易いものなのだ。ブラジルのオス・インヂオス・タバジャラスの弾くマリア・エレーナが流行していたころ、(Los Indios Tabajaras_Maris Elena)アルヘンティーナ の或るギタリスタが楽屋で余興にそれをそっくりにやったことがある。いわく「オレはインディオじゃないからこんな弾き方はしないのだダ,ハハハ」このように彼らは他者の音をよく聴いていて、同じような音色やフレージングにならないように気を配る。そうでなければ自身の音は作れない。話がそれてしまった。

一番注目されたのはわずかしか伝わってこないパンチョスの写真から、彼らの一人(当時どれが誰などと名も分かっていなかった)が手にしているギターが少し小ぶりだということである。テルツ・ギターではあるまいか。この説もすぐに否定された。だが、ひとまわりの小さいギターだとは誰もが確信していた。しかし、どのような楽器なのか…。
それが解決したのは12月10日ニュー・ラテン・クオーターでのレセプションの時である。
演奏を終えて客席フロアーに降りてきたヒルを、トロピカル・メロディアンズというバンドをひきいていたギタリスタ山田たかしはつかまえた。怪しげな英語で訊ねる山田 ― ヒルの英語も流暢じゃなかったから、かえってよかったと彼はいう ―はそこであの楽器がレキントという名でヒルの発明だと知る。

翌11日、大盛況の内に東洋初公演の幕は下りた。ごった返す楽屋を山田は訪ねたが、パンチョスはニュー・ラテン・クオーターへ行かねばならない。それなのに “レキントを日本で作らせたら” と持ちかけたのはヒルの方だった。ギター製作者を連れてホテルへ来るように、と日時も指定した。
12月18日、パンチョスは最初の巡業地仙台へ出発するのだが、それだけに出発前はフリーだった。中野区中野に工房を持つギター名工中出阪蔵を伴ってプリンス・ホテルを山田が訪ねた時、(注121_a)彼らは「さくらさくら」の練習中だった。そこで中出はヒルのレキントを綿密に計測した。そのほかにヒルのレキントは胴を叩くとA(ラ)音がすることも教えられた。

このようにして日本のレキント第1号は中出によって山田のために作られたのである。ヒルが中出レキントに接したのは60年第2回来日の時だったが、彼はそれを絶賛した。そのレキントはチカノスの注文品だったという。思えばチカノスにとってパンチョスは光と影であった。日本のラテン・コーラス・ナンバー・ワンと自負するチカノスはステージでパンチョスと「マル・イ・シエロ」を共演した。“光” である。だが彼らは手ぶらで歌うだけだった。ギター、ことにレキントをマスターせねばならないと痛感した。努力の末、彼らはそれを身につけたのだが、レキントをマスターしたのはトップ・ボイスだった。(当時のレキントと思われる音源でTrio Los Chicanos y Pepita/Historia de un Amor)レキンティスタでトップ・ボイスという才人はメヒコでもアセスのファン・ネリ、常時ではなかったがデルフィネスのチューチョ・オロアルテぐらいしかいない。“影”である。

この話は本当かどうか、したたかに酔ったヒルがレキントを何かにぶっけ ―自分で叩きつけた、人に殴りかかったなどの説もあるのだが― こわしてしまった。ヒルが想い出したのはレキント・ナカデである。チカノスにはも一本作り、完成しているチカノス用のは私に譲ってほしい...。(作成者ーこの話は本当でしょう。後にチカノスさんから聞いた)
61年の日本録音や後半のステージで使用しているのはレキント・ナカデ、これはまぎれもない事実である。(Index-BGM_Nangoku TosaO Atonisite この音色では)

話はとぶが66年10月20日、エンリーケ・カセレスをトップ・ヴォイスに迎えてメヒコ市のブランキータ劇場に出演していたパンチョスの楽屋を訪れた、長い間同地で活動したボンゴ奏者高木高之(パンチョスの日本録音の多くに参加)はヒルが使用していたのがレキント・ナカデであるばかりか、ナバーロや新参加のカセレスのギターもナカデだったと証言している。するとこのメンバーでの初吹込「ケ・ノ・テ・クエンテン・クエントス」などもそうかもしれない。一方、山田は73年に自身の記譜と監修で「レキント・ギター魅惑のラテン・トリオ」というフォリオを出版している(音楽の友社)。パンチョス、ディアマンテス、はもとよりパラグアジョスに至るグループの演奏を楽譜化した(レキントが主だから歌はメロディだけで、詞もない)おそらく世界にも類のないだろうユニークなものだった。ことに「ベサメ・ムーチョ」に至ってはパンチョスのそれを別格扱いにし、アセス、ディアマンテス、テニエンテス、J・ロドリゲス、インディオスのバージョンが併記されている。
ギターによるラテン・ナンバーの楽譜では57年に創楽社が刊行した「吉田正男ギター作品集 中南米名曲集(一)「同」(二)」にふれておきたい。ギターで弾き語りで、ロス・ランチェーロスをひきいてもいた吉田の編曲である。発行年代からも分かるようにレキントなど話題にもなかった頃だからギター・ソロ部とボーカル部だけで装飾フレーズ(ブリッジ)などはもちろんない。だが「ベサメ・ムーチョ」はもとより「シン・ティ」からアルヘンティーナ の「ミロンガ・トリステ」に至るそうそうたる曲ぞろいだった。特に珍しいのは、本論から離れるけれどもハビエル・クガートの「マイ・ショウル」(Xavier Cugat_May Shawl)が「エル・オンボ」として歌詞つきで掲載されていたことである。ルンバ王クギーはたしかに「エル・オンボ」の題でこの曲を作り1933年の処女録音には「マイ・ショウル」も「エル・オンボ」もあったことが記録されているのだが、私は「エル・オンボ(多分ボーカル入り)」は聴いたことがない。吉田はどのようにして入手したのだろうか。61年夏ごろには銀座の楽器・レコード店十字屋がメヒコ製レキントを輸入販売していた。11500円から25000円と広告に見える。私のレキント・ナカデは、その第5号以内と思うが、そんな安物ではなかった。60年の作品である。(注123_b)当時日劇ダンシングチームで踊っていた私は一日三回のショウの合間(映画上映。だから90分以上)ダンスのレッスンなどそっちのけで1階から続く階段の途中の出窓でレキントの練習にふけっていたものである。そんな或る日、階段の上の方から女性の声がした。「ワァー、やっぱりレキントだア」ハニー・ペアーズの二人だった。ショウの打ち合わせに来た帰りぎわに聞きつけ、どうもレキントみたいだけどこんな所でどうして?とたしかめに降りて来たという。それからパンチョス談義 ―まるまる一曲弾けるほどの腕前はなし― その日の練習はおしまい。こんなわけで私はよきダンサーにはなれなかった。もっともレキンティスタにもなれなかっけれども...。
しかし日劇には内緒でキャバレーでバイトをしたことはある(バレたらクビだ)。ギター弾き語りの2重唱で、もちろんレキントも使った。61年冬のことだから当時としてはユニークだったはずだが、しょせんはキャバレーまわりでしかなかった。レキントを用いたグループで成功したのは、トリオ・ロス・カバジェロスだった。先輩チカノスのほかにトリオ・ロス・カノーロスもあったが彼らはギターを使わなかったと記憶する。(作成者は見た日本のラテン・コーラス、グループ、ライブを東京有楽町の読売ホール舞台下手で確かにレキントを弾いていた。仲間とオー隠れレキントだー/曲はシエテ・ノタス・デ・アモールだった)キャバレーまわりをしていた時にトリオ・ロス(ロス・トレスだったかも)・オロスを知ったが、レキントは使っていなかった。メヒコのロス・トレス・カバジェロスに範をとった
ネーミングのトリオ・ロス・カバジェロス ―その最初のLP写真で三人とも堂々カバージョ(馬)Trio Los Caballeros NIPPON
の背にある― は、古賀門下の御曹子アントニオ古賀の歌のバッキングをしてパンチョス公演の
ステージに立ち、ヒルから高く評価された鶴岡雅義が61年4月に赤松佳一、小木敬一(翌年より)と結成した。ポリドールからだされたLPの巻頭は「ベサメ・ムーチョ」(Bésame Mucho)かと思いきや、ウアパンゴの「エル・パストール」なのだから、その意気、荘とすべし。数年ののちに鶴岡はトリオを解散、
メンバーも改新増員して東京ロマンチカ(Tokio Romantica/Bésame Mucho)とし、流行歌の世界で当たりをとる。カバジェロスに
続いたアルパ奏者黒沢明とロス・プリモス(五人編成)パラグアイのロス・インディオスに
憧れて同名を名乗った通称ロスインも同じ行程をたどったがここは日本、それが正解である。
(Los Indios/Quizas Quizas Quizas)
トリオで活動していた棊氏が長期にわたる国外巡演から久々に故郷メヒコの我が家に戻って来たら、女房は男をこしらえて雲隠れしていたという聞くも涙の話しが伝えられている。およそ名誉にならない話だからその男の名は誰も明かさないし作り話かもしれないが、ありえそうな話だ。
Requinto Nakade
Julito Rodriguez y su Trio Vol-9 ANSONIA y su Trio Rafael Charón Requinto Nakade
Julito Rodriguez y su Trio  ANSONIA  SALP 1407  VOL..9 Rafael Charón 手にしているレキント・ギターNAKADEと読める
1968年来日公演時に製作依頼か。
山田たかし 監修 魅惑のラテン・ギター 山田たかし 監修 魅惑のラテン・ギター_b
音楽之友社、山田 たかし 監修・魅惑のレキント・ギター/ラテン・ギター 解説・谷川 越二 1973,4,28.
吉田 正男/編 LATIN CHORAUS トリオ・ロス・ハポネス/編 ラテン・トリオ曲集
ケイメイ社 吉田 正男/編 LATIN CHORUS 1960 中央音楽出版社 トリオ・ロス・ハポネス/編 1962
この時代のトリオ・ロス・ハポネスの音源は手持ちにはない。
121_a)この日時は山田の証言だが、そして、どうでもいいことだがマユツバである。そんなに時間の余裕があるはずがない。当時の上野~仙台は最速列車でも6時間、飛行機でも第一京浜を羽田まで行って空中を60分(今この便はない)仙台市心まで40~50分かかっのだから...。
123_b)59年に中出に発注したギターが完成したのが、年が改まって60年になってから。そして山田情報に接し、もう矢も楯もたまらず中出工房(中野)に向かった。工費はギターの倍額だった。
1964年 中出阪蔵作、書道家藤波氏所有レキント・ギターLa Historia del Trio Los Panchos 6.に掲載
谷川 越二
アルビーノ さん編を作成中訃報が入電、日本中いや世界にパンチョスの名を・・・偉大なるトップ・テナーを喪いトリオ時代が終った気がする。謹んでご冥福をお祈りいたします。作成者Akira Kimura.
30 Johnny Albino_10 メヒコ録音 124
1961年に離日してからのパンチョスはフィリピンに行ったことまで記したが、そのあと分からない。メヒコに戻ったはずである。オルティス・ラモスは次に述べる録音は61年4月だとしているが、それだと日本→メヒコ→フィリピンになり、そんなややこしいことをするだろうかと疑問になる。もっともそれはやはり彼のいう“5月18日マニラ録音”を下敷きにしてのことであって、それが2月か3月だったとすれば日本からフィリピンを経由してメヒコへ帰ったことになろう、どうということもない(どういうこともないことを真面目に考えている愚かさよ...)。それにしても
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